2015年06月13日

絶対的信仰は運命を変える

統一教会
芳賀幸一
<2011 春季 牧会者説教集より>

 信仰を出発する動機はいろいろあると思います。病気が治りたい、家庭問題やさまざまな問題を解決したい、そして真理を求め、メシヤを求めて来られた方もいると思います。

 私は特に問題意識はありませんでしたが、このみ言を聞いて「これこそ真理だ」という確信を持てたので入教しました。そしてもう一つ、ここに来たら自分が変われると思ったからです。教会に来て強く感じた印象は、この人たちは輝いている、自信と確信を持っている、思いやりがあり愛がある、ということでした。

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2015年06月06日

一人でも多く

統一教会
熊谷栄佐雄
 <2010 夏季 牧会者説教集 P.92~95>

聖書拝読:コリント人への第一の手紙9章15〜27節
 「しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇ほこりは、何者にも奪い去られてはならないのだ。わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。
もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務つとめなのである。それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。

 わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には──わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが──律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人
かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。

 あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」


 真の父母様の「神様の涙の色を知りたい」という祈祷を聞かれたことがあると思います。その意味をどのように考えたらよいのでしょうか。
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2015年05月30日

平和の王、ホサナ

統一教会
 李倉培
 <2010 春季 牧会者説教集より>

訓読:マタイによる福音書21章1〜11節 
 「さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、『向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう』。
こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。すなわち、

 『シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って』。

 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、

 『ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ』。

 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、『これは、いったい、どなただろう』と言った。そこで群衆は、『この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである』と言った」


 今回、アメリカに行ってきましたが、今奉読した聖書の内容を重ねながら多くの事柄を考えるようになりました。

 摂理は、時と非常に密接な関係があります。神様がノアを地上に送られる時も、アブラハムを地上に送る時も、すべて時に合わせて送ったのです。聖書の多くの部分において、時の重要性に対する内容が多いのです。

 時が来たら、神様は無理やりにでも時に合わせて行動される神様です。イエス様の公生涯の期間にあっても同じだと思うのです。聖書の内容を見てみれば、今の時は旧約聖書の預言の成就と、メシヤとして、また万王の王の立場でエルサレムに入城される時です。いよいよメシヤとしてエルサレムに入る時を迎えるようになったのです。

 皆さん、エルサレムについてまず考えてみましょう。エルサレムはどのような意味を持っているのでしょうか? 何のために、まただれのために建てられたのでしょうか?

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2015年05月23日

一心一体一念の喜び

統一教会
 山田佳彦
 <2009 冬季 牧会者説教集より>

 家庭において、教会において、職場において、心が一つになり、行動が一つになり、目的が一つになれたら、どれほど幸せでしょうか?

 どうしたら、家庭、教会、職場で、神の愛、神の知恵、神の力を得ていくことができるのでしょうか?

 宇宙発展の法則を『原理講論』の中では、授受作用で説明しています。(『原理講論』「授受作用」p.50-51)

 万有引力は引力によって中心に引き寄せられる力です。では、万有原力はどのようなものでしょうか。すべてのものが有している力の源というように記されています。原力というものが創造主の神様にあって、それを被造物のあらゆるものが有しているのです。形状的にはエネルギーと表現し、性相的には心情と表現できます。

 「心情」とは何かと言えば、「愛を通して喜びを得ようとする情的衝動」と定義されています。火山が大爆発するように、また、清い湧き水があふれ出すような、もう抑えがたい「愛したい!」という衝動のことを表現しています。

 創世記によれば、創造の6日目に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ』」と記されています。人間創造の時に、神様は「はなはだ良かった」と言われたと記されています。人間を創造した時だけ「はなはだ良かった」と言われています。神様が人間に対して、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」と言われたとあるように、万有原力は人間が、三大祝福を実現するためにある力の源ということができます。つまり、人間が個性完成、子女繁殖、万物主管する力と言うことができます。
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2015年05月16日

宇宙の根本原理

板谷安一.jpg宇宙の根本原理
統一教会
 板谷安一
 <2009 冬季 牧会者説教集より>

 「宇宙の根本原理」ということで、ひととき考えてみたいと思います。宇宙の根本は、神様と人間の父子の関係です。文鮮明先生が説かれた宇宙の根本は、「神様と人間が親子の関係である」ということです。真理の一番の中心が「親子関係」であり、このことが最も重要ではないかと思います。

 多くの人たちは、世の中を見ながら、神様がいるのに、なぜこのように不平等なことがたくさん起こるのだろうかと、理解できなくて、神様をののしっています。アフリカでは飢餓で多くの人が死に、戦争もあります。現実だけを見るなら不平等です。それを見て、「神などいるものか」と言う人はたくさんいます。
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2015年05月09日

主の訓練を受けてこそ我々は成長し完成する

小笠原康浩.jpg統一教会
 小笠原康浩
 <2009 春季 牧会者説教集より>

聖書訓読:
 「また、子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、『わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである』。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい」
(ヘブル人への手紙第12 章5〜15 節)

 統一原理の偉大さの一つが「成長して完成する」という原理です。そして、万物と人間では成長して完成するまでの違いがあります。万物は自然の力で成長して完成しますが、人間は自然の力、プラス何ですか? 人間の責任分担です。人間は責任を果たしながら成長して完成するということです。ですから、人間は責任を果たさなければ成長も完成もしないのです。

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2015年05月02日

最初の動機を貫き善なる実を結ぶ者

21河村政俊.jpg統一教会
 河村政俊
 <2009 春季 牧会者説教集>
   
み言訓読:『後天時代の絶対信仰』63 ページより
 「心と体が絶対に一つになることが最も重要です。これができなければ、すべて崩れていきます。それでは何を中心として一つになるのでしょうか。絶対愛を中心として一つになるのです。神様の絶対愛を中心として一つになるのです。絶対愛とは真の愛です。真の愛を中心として心と体が一つにならなければならないのです。そして、『私は、真の愛と一つになった体をもった』と言えなければなりません」

 私たちの信仰生活の目標は何でしょう。神様の真の愛の結実になることでしょう。そのためには、徹底的にために生きなければなりません。他のために生き切ってこそ価値を表せます。

 皆さんは汚い場所が好きですか、きれいな場所が好きですか。汚い場所をきれいにするには、雑巾で拭かなければなりません。雑巾は、自分を汚して周りをきれいにするのです。ぼろぼろになった雑巾は、どれだけ活躍し、どれだけ周りをきれいにしたことでしょう。雑巾としての価値を最高に示したのです。皆さんは『天聖経』を読んでいますか。きれいなまま祭壇に飾っているのなら、『天聖経』は喜んでいるでしょうか、悲しんでいるでしょうか。どちらだと思いますか。
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2015年04月18日

創造目的

統一教会
金 雨植
<原理復興会講話集2 P.76~80>
 きょうは、神の創造目的について考えたいと思います。

 神様は、なぜ被造世界を創造されたのでしょうか。『原理講論』、聖書を見れば、神様の創造の話が書かれています。

 創世記1章には、一日目に光を創造され、創造が終わったときに「良し」とされたと記録されています。さらに、上の水と下の水とを分け、陸地と海に分けて「良し」とされ、また星、太陽、月をつくって「良し」とされたと記録されています。創造が終わるごとに、神はそれを見て「良し」とされたと記録されているのです。

 神様は自分の創造した内容をご覧になって、善の対象ができたことを喜んで「良し」とされました。神の喜びが表現されているのです。それを見ると、神様は自ら創造された被造物が善の対象となることを願われたことが分かります。神様が被造世界を創造された目的は、対象が善の対象となり、喜びの対象となるためであったわけです。 それでは、被造物がどのようにすれば、神に一番喜ばれるのでしょうか。

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2015年04月11日

訓読会の伝統に立つ者になりましょう

統一教会
 藤田敬三
 <2011 春季 牧会者説教集>

訓読:天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会のみ言から
 「皆様、真の父母様は、すでに人類のための遺言を準備し、残しました。一生に6度、7度も生死を行き来する獄苦を経ながらも勝利し、準備した遺言です。永遠なる人類の教材、教本として8種類の本を残しました。冊数としては1000冊を超える分量です。『文鮮明先生み言選集』、『原理講論』、『天聖経』、『家庭盟誓』、『平和神經』、『天国を開く門 真の家庭』、『平和の主人、血統の主人』、『世界経典』、以上の8種類の書籍です。これらの教本は、皆様が霊界に入っていっても読み、学ばなければならない本です。決して人間の頭脳から出てきた言葉や教えではありません。天がかわいそうな人類を救援するために下さった天道を教える教本だからです。
 皆様は、今からまず皆様の家庭から上記に列挙した教材・教本を中心として訓読会の伝統を立てなければなりません。一つの家族三代が新しい一日を始めるに当たって、まず天のみ言を訓読し、新しい心で訓読の人生を実践する伝統を立てなさいというのです。霊界と肉界が同時に真の父母様に侍り、同じ天道のみ言を毎日訓読する世の中をつくろうということです。このようになれば、いくらサタンが皆様の血統に乗じて蠢動するとしても、訓読会の伝統の前では立つ場がなくなるのです。
 正午定着的基準で影のない人生を生きていくそのような家庭に、神様の祝福が下らないとすれば、だれに下さるというのでしょうか。このような天の家庭がこの地に満ちるとき、この地球星は自動的に『One Family Under God』のみ旨が完成した地上・天上天国となるでしょう」
 「ここまで来れば、『一人の人間として、万人の祝福の中で自らの人生を振り返り、満足して余生を楽しむ資格がある』と称えることでしょう。『あらゆる重荷をすべて下ろして、もう思い残すことなく“人生90年の成功”を誇って暮らしなさい』と言うでしょう。しかし、私たち夫婦の生涯は、世俗的な目で見るそのような次元の人生ではありません。人類の縦的真の父母であられる神様の印を受け、実体真の父母の使命を完遂しなければならない私たち夫婦は、今、実体の天一国完成までの最後の3年を残し、いつの時よりも深刻な日々を生きています」

 きのう(2010年12月4日)、韓国・ソウルにおいて天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会が行われました。真のお父様は、天一国創建の日、神の国実現の日が必ずやってくる、必ず成ると宣言されました。準備はすべて整い、あとは私たちが責任を果たすだけだと語られました。
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2015年04月03日

神様 ! 為に生きさせてください

小椋.JPG統一教会
小椋勝美
<2012 夏季 牧会者説教集 P.138~144>

訓読:『天聖経』「地上生活と霊界」第1章有形・無形世界における人間の存在(p.568〜569)より

 「真の愛とは、何でしょうか。自分の生命以上の投入をしなければなりません。生命以上の投入をしない所には、真の愛はありません。生命以上に投入するところから真の愛が成立します。真の愛が成立しなければ、永生はないのです。

 なぜそうなのでしょうか。皆さんがサタンの血を、サタンの血統を受け継いで生まれたからです。それで、聖書には、『「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な第一のいましめである』(マタイ22:37、38)とあります。

 この言葉の意味は何でしょうか。心を尽くして、思いを尽くせと言ったのは、生命までも懸けなさいということです。これが第1の戒めです。

 第2の戒めは、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』(マタイ22:39)ということです。『隣り人を自分を愛するように愛せよ』というのはどういうことでしょうか。生命を懸けて愛しなさいということです。生命を投入しなければいけません。

 なぜ、生命を懸けなければいけないのでしょうか。第1は、サタンを屈服させることができず、第2は、サタンの環境から抜け出すことができず、第3は、サタンの血統から抜け出すことができないからです。サタンの環境から抜け出すことができるとしても、サタンの血統は仕方がありません。真の愛は生命を超越するものです」


 「為に生きる」という言葉は、私たち統一教会の最も中心的な生活信条といってもいいでしょう。真のお父様は、絶えず私たちにために生きなさいということを教えてくださっていますし、私たちも、絶えず「為に生きる」という言葉を胸に日々生活しています。きょうは、日々の生活が本当に「為に生きる」としながら、為に生きていることになっているのだろうか、つまりそれが本当に自分の愛として実っているのだろうか、一緒に考えてみたいと思います。
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