2016年03月12日

最後の勝利者になろう

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 世界平和統一家庭連合 鄭 光根





訓読:
 「また、ほかの譬たとえを彼らに示して言われた、『天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕しもべたちがきて、家の主人に言った
「ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか」。主人は言った、「それは敵のしわざだ」。すると僕たちが言った「では行って、それを抜き集めましょうか」。彼は言った、「いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう」』。
 また、ほかの譬を彼らに示して言われた、『天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる』。
 またほかの譬を彼らに語られた、『天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる』。
 イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。
これは預言者によって言われたことが、成就するためである、『わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう』。

 それからイエスは、群衆をあとに残して家にはいられた。すると弟子たちは、みもとにきて言った
『畑の毒麦の譬を説明してください』。イエスは答えて言われた 『良い種をまく者は、人の子である。畑は世界である。良い種というのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御み 使つかいたちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」(マタイによる福音書13章24〜42節)

 「それから、御使はわたしに言った、『書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである』。またわたしに言った、『これらは、神の真実の言葉である』」( ヨハネの黙示録19章9節)

 「神様は、一時と、一人の方と、一つの仕事のために、六千年間み業をなしてこられた。ゆえに、この一人の方がなさる仕事と一時を裏切る者は、六千年を裏切る者であり、反対に忠誠でもって迎える者は、六千年の不変の忠臣として認定される。忠臣は、六千年の恵沢を一身に浴びるであろうし、裏切り者は、累積された罪を一身に受けるのである」(『御旨の道』p.17)

 「勝利の栄光は、その戦闘の総司令官から始まるのであるが、共に参加した全戦友にもその栄光は、平等に分配される」(『御旨の道』p.160)

 きょうはまず、アメリカのキリスト教会の有名な牧師の牧会の話をしたいと思います。
その方が若い時に牧会していた教会の話です。

 その教会は、所属している信者は多いのですが、礼拝にもあまり参席せず教会の活動にもほとんど参加しない信者がとても多かっため、その信者たちに警告をするために、ある日、緊急に連絡をしました。
 「我が教会がこのように何年間発展もできず、これからを見ても発展するようでもないので、そのような教会であれば、これ以上神様の前に必要性がないと思います。それで、今週を最後として『教会の葬式』をして、来週からは教会を完全になくすことにします。ですから信者の皆様は、今週が最後の礼拝だと思い、全員が必ず参席してくださるようにお願いします」

 その連絡を受けた信者たちは、深刻な心で最後の礼拝に参席しました。
礼拝堂に入ると、本当に「○○教会の葬式」という横断幕が張ってあり、前の壇上には黒いお棺が置かれているのです。いよいよ礼拝が始まって牧師が出てこられ、「きょうはこの教会の最後の葬式です。それでここにお棺を準備しました。このお棺の中には死んだ教会の姿が入っているので、皆様、一人ずつ順番に出てきて、このお棺の中の死んだ教会の姿を見るようにお願いします」と言いながら、お棺の蓋ふたを開けました。それで信者たちは、お棺の中に何が入っているのかと気にしながら、お棺の中をのぞいてみると……。

 皆さん、その中に何が入っていたと思いますか? お棺にちょうど合う、大きな鏡が入っていました。
信者たちがお棺の中をのぞいてみたとき、その中に何が見えたでしょうか? お棺の中に見えたのは、まさに鏡に映った自分自身の姿でした。ですから結局、「死んだ教会の葬式」というのは「死んだ信仰者の葬式」を意味していたのです。それで、その日のその最後の礼拝に参席した信者たちは、お棺の中にいる死んだ信仰者としての自分自身の姿を見て心から悔い改め、新しく出発し、それ以後、教会は大きく発展したという話です。

 皆さん! この死んだ教会の葬式の話は、ほかの教会の、ほかの信仰者の話ではなく、今日、私たちに与えられる貴い教訓だと思います。
 そのために今日、私たちはみ旨の中で死んだ信仰者ではなく、生きている信仰者になるためには、この時代のみ旨の中において、私の存在目的は何なのか、何をするために私は今この場に立っているのかという自分自身の存在目的、存在名分を明確にしなければなりません。

 皆さん! 存在物が存在しながら存在目的を失ってしまえば、それは存在の意味も価値もないということを、私たちは原理を通して知っています。キリスト教会では、平素は信仰と関係のない生活をしていて日曜日だけに教会に来る人を「サンデークリスチャン」と呼び、そのような信者を敬遠しています。
皆さん! 実践よりも信仰で救援を受けようと思って信仰をしているキリスト教会でも、サンデークリスチャンの基準ではいけないと思っているのです。ましてや、私たちは神様によって自分が解放を受けるために集まった人々ではなく、自分を通して神様を解放してさしあげるために集まった人々であり、つくられた天国に行こうとする人々ではなく、天国をつくろうとする人々であり、み旨の前に世話になるために集まった人々ではなく、み旨を世話するために集まった人々です。

 お父様は『御旨の道』人格の章で、「人間は、まず必ず必要な人、いてもいなくてもいい人、いてはならない人とがある」「み旨の中で見物人となるな。祝いの席で不必要にうろうろする人は、全体に支障ばかりもたらす」とおっしゃっています。お祝いの席、今の全世界的な小羊の婚宴の摂理の中にいながら、その摂理に同参しない人は、お父様のみ言のとおり、見物者、全体に支障ばかりもたらす人になってしまうのです。
 そのために、私たちは何をするためにこの場に立っているのかという、み旨の中における自分のアイデンティティーを明確にしなければなりません。皆さん! 私たちは何のためにきょう、この場にいるのでしょうか? それは神様の摂理に同参するためです。

 神様の摂理に同参し、神様の創造理想を完成していくためです。そのために、私たちは先に救いを受け、み旨の前に召命を受けるようになったのです。ですから、私たちは先に救いを受け、召命された人として伝道(人間解放の摂理)に同参しなければならない責任があるのです。この責任はしてもいいし、しなくてもいいという選択事項ではありません。伝道しない人は、神様の期待を裏切る人になってしまうことでしょう。なぜでしょうか? 私たちが原理で学んだように、堕落世界のすべての人々は、「生きているのは名ばかりで、実は死んだ者」だからです。

 一つ比喩で話をすれば、霊的に見れば、この世のすべての人々は、自分一人の力では絶対に抜け出ることのできない沼の中に落ちて、時間が過ぎれば自動的に死ぬしかない人々です。私たちも、そのような人々と同じ立場、死ぬ場で時間が過ぎれば永遠に死ぬしかない自動死亡圏に行った人々でしたが、メシヤに出会い、その死の沼から先に救いを受けました。しかし、まだその沼の中では数多くの人々が、死に処しています。そうしたら、先に救いを受けてその沼の中から抜け出た私たちは、何をしなければなりませんか メシヤが多くの人々の中で私たちを先に救ってくださったのは、メシヤ一人でそのすべての人々を救うことができないので、私たちにメシヤの仕事に同参しなさいということです。ところが、そのような私たちが、それを忘れて「私はとにかく助かったから、ほかの人は死んでも生きても私には関係ない」とするならば、どのようになりますか?それは救ってくださったメシヤを裏切ることであり、メシヤの前に罪人になるしかありません。
 今、直接伝道の運勢を迎え、家庭ごとに最低3名以上の伝道対象者のリストを作って教会に報告し、伝道するようにしました。ところで皆さんが報告した伝道対象者のリストを見ると、ほとんどが家族関係の人で、知人友人などはあまりいないようです。なぜそうなのかと聞いてみると、ある食口は「多分、食口たちは自分の周りの人々に自分が統一教会員であることを証のを躊ちゅう躇ちょしているためでしょう」と話しました。
 
 躊躇するのは多分、二つの理由のためだと思います。
一番目は、周りの人々に自分が統一教会の人であることが知られてしまうのが怖いのです。
では、そのように思う方に、一つ聞いてみたいです。自分が初めてこの道を行くことを決意したとき、何の苦難と反対もなく、だれもが行きやすい道だと思いましたか? 今まで、そのように思ってこの道に従ってきましたか? そうではないと思います。苦難や反対はありますが、私たちは過去のキリスト教会の殉教者、信仰者たちに比べると、神様の復帰摂理の時代的な恵沢と真の父母様の勝利圏により、あまりにも行きやすい道を行っているということを知って、勇気と自信を持って堂々と行かなければなりません。

 二番目は、周りの人々に自分が統一教会員であることが知られることを恥ずかしいと思うことです。
皆さん! その瞬間の恥ずかしさのために自分を証さなければ、霊界に行って永遠に恥ずかしい立場に立つしかないことを知らなければなりません。それは、信仰者として本当に恥ずかしいことです。
 お父様は、「統一教会に入ってきて、伝道を一度もしないで霊界に行けば、おしになる」とおっしゃいました。皆さん! 本当に伝道したいのであれば、神側の人である自分自身の正体性を証さなければなりません。もしあいまいにすれば、伝道対象者との関係は近くもならず、遠くもなりません。永遠に平行線になってしまいます。皆さん! 自分の正体性を明らかにしたにもかかわらず、関係に問題が生まれなければ最上であり、たとえ誤解と反対を受けて関係が遠くなったとしても、伝道はそこから第一歩が出発するようになるのです。それが伝道者のチャレンジなのです。証して関係が遠くなったとしても、一生懸命にケアしてアプローチしていけば、関係を回復する道が開かれるようになっているのです。

 きょうの説教の題目は「最後の勝利者になろう」です。私たちが原理の終末論で学んで知っているように、終末というのはサタン中心の悪主権が滅亡し、神側の善主権が立てられる時です。そのような意味から見るとき、今のこの時は2013年1月13日までに天一国を創建していかなければならない、終末の中の終末の時であり、最後の時であることは間違いありません。

 皆さん! 韓国の予言書の中に『格菴遺録』という本がありますが、その本を解釈をした具 成謨という易学者が、お父様を弥勒仏、鄭 道令、再臨のメシヤであると証しました。その本の中の一部が日本語に翻訳され、『彼は誰なのか』というタイトルで出版されています。その本を見ると、終末に対する予言があります。終末には、それまで信じて従ってきた人々を本物と偽りの物にえり分けるために高い木の上に上げ、下から揺らすと多くの人々が落ちると予言されています。この予言はどういう意味かと言えば、終末の時は真と偽り、善と悪が交差する混沌の時であるため、少しでも考えを間違えれば、み旨に対して、また真の父母様に対して不信するようになることを警告しているというのです。混沌の環境が造成されるので、絶対信仰の基準が必要
であり、それがなければ、ほとんど最後のところまで来ても、最後の瞬間に落ちてしまうこともあるというのです。

 聖書にも、それに似た預言があります。マタイによる福音書13章24節から42節を見ると、イエス様は終末の時のことを良い種と毒麦の比喩で話されました。主人が畑に良い種をまいたが、あとで敵が来てその畑に毒麦をまきます。畑に毒麦があることを見た僕しもべたちが主人に「私たちがその毒麦を全部抜いて集めましょうか」と尋ねると、主人は「今それを抜くと間違えて良い種まで抜くかもしれないのでそのままにしておきなさい。しかし、収穫をする時には毒麦を先に抜いて焼いてしまい、良い種は倉庫に入れる」とあります。

 皆さん! 今日、私たちは説教の題目どおり、摂理の収穫期である2013年1月13日まで、最後の勝利者にならなければなりません。ただみ旨の中で見物人のようになれば、絶対に勝利者になることはできません。
本当に重要なこの最後の摂理の時に、私たちは万物解放と人間解放という存在目的を中心として、ふさわしい人にならなければなりません。
 最後に『御旨の道』のお父様のみ言を一緒に読んで説教を終えたいと思います。
 「神様は、一時と、一人の方と、一つの仕事のために、六千年間み業をなしてこられた。ゆえに、この一人の方がなさる仕事と一時を裏切る者は、六千年を裏切る者であり、反対に忠誠でもって迎える者は、六千年の不変の忠臣として認定される。忠臣は、六千年の恵沢を一身に浴びるであろうし、裏切り者は、累積された罪を一身に受けるのである」
 「勝利の栄光は、その戦闘の総司令官から始まるのであるが、共に参加した全戦友にもその栄光は、平等に分配される」
posted by ffwpu at 13:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする