世界平和統一家庭連合 田中 延幸
訓読:
「地上生活を本当に良くしなければならないのです。精誠を尽くし、1日に何十回も原理基準を中心として反省しながら、このようにして朝、昼、夕、24時間、天上の法に引っ掛からないように生きなさいと懇切にお願いするのです」
(『天聖経』「人間の生と霊魂の世界」第1章 人生の行くべき道 3)地上生活の価値C肉身をつけた地上生活が日ごとに記録される から)
「朝、第一歩を踏み出す時も、公的な一歩であるか、私的な一歩であるかを反省しなければなりません。
そして一日の仕事を終えて床に就いた時も、公的な一日を送ったのか、私的な一日を送ったのか反省しなければなりません。また、一年を中心として公的な生活をしたか、私的な生活をしたか、一生を中心として公的であったか、私的であったかを反省しなければなりません」
(『天聖経』「礼節と儀式」第3章 礼拝と教会生活 礼節 3)教役者(牧会者)がもつべき姿勢 @教役者
(牧会者)は公的でなければならない から)
私たちの信仰生活の目標の一つは、祝福を受けて血統転換、すなわち原罪を清算するというのが一番のポイントであり、中心的な恩恵です。
これは、メシヤであられる真の父母様によって与えられるものであり、ある意味、一方的に与えられる恩恵です。 一方、自分自身を完成していくというのは、自身が心して自らの5パーセント、すなわち責任分担を果たすということです。
すなわち、いかに自分自身を神様が願われる人格、神様が願われる家庭、神様が願われる氏族、神様が願われる世界にしていくか、これは人間が自ら自身でしなければならない内容となってきます。
今、「神様摂理史の責任分担解放圏完成宣布教育」を受けてみると、最初に、「宣布教育を学ばなければならない理由」という個所があります。その中に、「現実問題を解決できない理由」という項目があります。
世の中には、多くの知識人、有識者がいますが、その方々でも根本問題を解決できないのは、
@創造主、神様を否定して解決しようとするため、A神様を信じつつも神様をのけ者にして自己中心的に考
え、解決しようとするため、B人間自身が堕落した人間であることを
認めようとしないため、です。
我々は祝福を受けました。原罪は完全に清算されています、しかし、堕落人間としての性質や思い、あるいは考えの癖、これらが転換され、成長しているでしょうか?
これは、真の父母様にお願いするのではなく、自身が取り組むべき内容です。
私たちも、神様を信じていますが、問題解決を図ろうとする時、どこかで神様をのけ者にしていないでしょうか。神様を中心にしていると言うけれど、神様にお願いし、依存する意味で神様を考えているだけではないでしょうか。人間が果たす責任とか、自身で変化するとか、成長するということを、どこかに置いておいて、神様に全部任せてしまうような祈りをしていないでしょうか?
まず、自覚しなければならないのは、私は堕落したという観念があるということです。良い意味で常に自分を疑わなければならないということです。自分の思考回路や感性、自分が正しいと思っていること、
自分が培ってきた内容は、一旦、置いてみてください。先ほど訓読していただいたように、「精誠を尽くし、一日に何十回も原理基準を中心として反省しながら」とあるように、その都度、その都度、自分の考え方、感じ方が、原理基準に合っているのか、神様のような発想をしているのか、それをチェックしてみてください、ということです。
自分は正しいと勝手に思い込んでいたら、原理でチェックしようとは思いません。
自身の既成概念を一旦外に出してみてこそ、お父様のみ言や宣布教育が入ってくるのです。
私自身も、今までに、生活や活動する際に、み言を実践してつかんだ内容があります。
しかし、原理講義を聞いてみると、まだ上辺だけの理解だったと思わされることが多々あるのです。
いつも良い意味で自分を疑わなければならず、言い換えれば、常に初心に戻れということです。
車を運転している方なら経験があると思いますが、運転が慣れてくると、漫然と運転していることに気付くことがあります。狭い道は緊張して走るのですが、高速道路は一定のスピードで走ることができるので漫然と運転しやすいのです。ですから、免許更新の時に、交通事故などの実例の画面などを見て、初心に返ることがあります。
きょうは、内省という言葉を使いました。真のお父様は反省という言葉を使っておられます。
その意味は、自身の考えに不足さや不完全さがあるということを受け入れるとともに、どうしたらもっと本来的な生き方ができるのかを探し出そうとする姿勢を言います。ただ自分を責めたり、卑下することではありません。内省とか反省という言葉を使うと、自身を打ちのめしてしまうタイプの方もおられるでしょうが、そうではなく、原理のみ言や真のお父様の自叙伝から、前進するためのみ言を探し出すことであり、挑戦することです。
もし今、家庭や近隣や職場で、難しい人間関係などの問題を抱えておられるとしたら、それは自分を転換できるチャンスです。今までどおりに対応するのではなく、み言とお父様の生き方に立ち返って行動を考え直すのです。
問題が起こるということが全て悪いのではありません。問題や課題を悪いこと、不幸と思うことそのものが悪いことであり、不幸なことです。問題は、私がみ言やお父様に近づくためのチャンスです。
内省することで自身を嫌いにならないでください。確かに、今の私は不完全ですが、神様は一旦、この私をそのまま受け入れてくださっているということを知ってください。
神様は、私を赦ゆるす、受け入れるということと共に、私の中に埋め込んである本性を信じて見ておられるということです。そうです、ただ赦して曖あい昧まいにしておられるのではなく、この子には立派になる要素を植え付けてあるから、絶対に立派になってくれるはずだと信じてくださっているのです。
ですから、赦されているからといって怠惰なままでよいという意味ではなく、成長を待ってくださっているということです。そのことに感謝し、努力しなければいけません。
真のお父様は、神様摂理史の責任分担解放圏完成宣布教育を10回は学びなさいとおっしゃってくださっています。それはなぜでしょうか? 伝道教育局の多田講師(当時)が話してくださったのは、堕落することでサタンに生殖器を握られている、私たちの感性の根本は生殖器につながるので、見ること、聞くこと、触れることが、全部サタンの影響によって歪んで感じている、屈折した感性になっているというのです。
真の愛によって五官を使えていないというのです。そのサタンの手を放させるのが、神様摂理史の責任分担解放圏完成宣布教育です。それを聞く価値がそこにあるというのです。聞くことを繰り返すのは、例えて言えば、シャワーを浴びて洗い流すようなイメージです。神様の愛のシャワーです。
ですから、現状が悪い時だけ内省するのではなく、別段問題がないと思える状況であっても、内省する習慣が必要です。何度も申し上げますが、内省とは、内向きとか内向的な姿勢ではなく、己をよく見て、自分の態度を原理的に改めるきっかけをつかむことです。
いつも自分の心と対話をしてください。例えば、「今、自分の心にわだかまりはないか?」と問い続けていくと、何年も前に忘れてしまっていたことが心のしこりになっているのを発見することがあります。
また、積極的には、「身近な家族に対する愛情がどんどん深まっているのか?」と問うてみてください。
お父様のみ言にあるように、一日に何十回もです。完成に近づくために、そうしたらよいというのです。
そのように積み重ねれば、どこかで必ず成果を見ます。
内省を楽しんでください。漫然と生活したり、苦労するのではなく、み言を実践して改善、成長した証しをつかんでください。それが信仰の醍醐味です。