世界平和統一家庭連合 崔 乘和
<2012 冬季説教集より>
聖書拝読:
「主はモーセとアロンに言われた、『わたしにむかってつぶやくこの悪い会衆をいつまで忍ぶことができようか。わたしはイスラエルの人々が、わたしにむかってつぶやくのを聞いた。あなたは彼らに言いなさい、「主は言われる、『わたしは生きている。あなたがたが、わたしの耳に語ったように、わたしはあなたがたにするであろう。あなたがたは死体となって、この荒野に倒れるであろう。あなたがたのうち、わたしにむかってつぶやいた者、すなわち、すべて数えられた二十歳以上の者はみな倒れるであろう。エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、わたしがかつて、あなたがたを住まわせようと、手をあげて誓った地に、はいることができないであろう。……』」(民数記14章26〜30節)
「翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。そこで、イエスはその木にむかって、『今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた」(マルコによる福音書11章12〜14節)
「朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、『先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています』。
イエスは答えて言われた、『神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るで
あろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう』」(マルコによる福音書11章20〜24)
神様が人間を創造される時、耳は二つ、口は一つで創造されました。
二つである耳はいつも門が開かれています。恵まれた言葉をたくさん聞きなさいということです。
一つである口は唇に守られ、歯の中に舌を隠しておきました。言葉を少ししなさいということです。
人の言葉は、人生の方向を決めます。肯定的な言葉は、人生を肯定的な生の方向に導きます。
否定的な言葉は、人生を否定的な生に導きます。自分が言うことが人格を形成し、人格が形成されたとおりに運命が決められます。
神様は人間にだけ言葉の特権を与えました。万物はアダムが言うとおりに名付けられました。親が子の名前をつける時、その子の一生の名前になって運命付けられます。
イスラエルの民たちが出エジプトしてカデシ・バルネアに至りました。ヨルダン川を渡れば、カナンの地、乳と蜜が流れる地、約束の地に入ります。入っていく前に、12支派のそれぞれの代表をカナン偵察に送りました。ヨシュアとカレブは信頼の報告、すなわち肯定の報告をしましたが、他の10人は不信の報告をしました。この時、不平を言うイスラエルの民たちに対して神様が言ったみ言が、きょう拝読した聖句です。
「あなたの言葉が私の耳に聞こえたとおりにしよう」。神様が直接誓われた言葉です。言われる神様は、聞く神様です。言葉の特権は責任も伴います。言葉が信仰的な時、肯定的の時、祝福されます。
しかし不信仰的、否定的な時は、責任を問い、審判もなさいます。
古今東西を問わず、言葉には呪いの力があると信じられてきました。悪のことを言えば、私の心が先に悪くなります。善のことを言えば、私の心が善良になります。汚いこと、怒りを言えば、私の心が汚れ、怒ります。先進国、福祉国家であるかは、その国のGNPではなく、国民の言語の水準で量られます。
言語の美しい社会が先進国であり、元気な社会です。言語の荒れた社会は後進国であり、病んだ社会です。
リーダーたちの言語は希望的でなければなりません。真実さがなければなりません。一度言った言葉は守らなければなりません。信仰者は、どんな場合でも信仰的でなければなりません。食口には食口らしい言葉があります。私たちの言葉が、そのまま成されるからです。その言葉が祝福になったり、呪いになったりします。その言葉が祈祷になったり、成就したりします。信仰者には信仰者らしい言葉があります。
きょうの聖句の無いち花じ果くの木を呪う事件は、私たちがよく知っています。イエス様は耳のない木に話します。なぜでしょうか? 言葉自体特権勢があるからです。実を結ぶべき時に実がないと呪いました。
どうして弟子たちが聞いていて記録したのでしょうか。言葉は話すことだけでなく、聞くことにも力があります。どんな言葉を聞いて生きるのかが、私の人生を決めるようになります。
ペテロは無花果が根元から枯れたと報告しています。ここでイエス様は、「神様を信じなさい。言葉がそのまま成されると信じ、疑わずに神様を信じなさい」と教えています。実がなければ呪われよというのではなく、弟子たちに言葉の権勢を教えるため、信頼の権勢を教えるためでした。
新・旧約聖書の共通的メッセージは、「言葉には力がある、信仰者の言葉には権勢がある、神様が下さった権勢を分からずに生きていけば失敗する生を生きていくのだ。だから慎むべき言葉、一生絶対に口にしてはいけない言葉がある」。それが、きょうの民数記の聖句です。
不平、不信仰的な言葉です。神様の耳に聞こえたとおりすると神様が誓っていらっしゃいます。「私を恨む者はカナンに入ることができないだろう、災いで死んでいくだろう」。実に恐ろしい神様のみ言です。
イエス様は弟子たちとガラリヤの海を渡る時、恐ろしがる弟子たちを信仰がないと咎(とがめ)ます。信頼の言葉を宣布しながら生きることを願われました。新・旧約の共通点は、不信仰の言葉を慎みなさいという
ものです。信仰を忘れてしまって、くたびれて不信の言葉を言えば、言葉の力を忘れてしまいます。
物を言ったら、その言葉が成されることを信じてください。恨みの唇を閉めなさい。地の果てまで福音を伝
えなさいというのが、聖書の教えです。
タルムードにもこんな教えがあります。ある先生がシモンという人に、この世の中で一番貴い影響力があるものを探してきなさいと言い、ヨハネという人には、この世の中で一番悪い影響力があるものを探してきなさいと言いました。二人が探してきたものは、どちらも人の舌でした。私たちの舌が、私たちの言葉が、世の中を建てもし、崩しもします。一番偉大な影響を与えもし、一番悪い影響を与えもするというタルムードの教訓です。
ある研究所の統計があります。
【子供が一番聞きたい言葉】
@この世の中で君が一番大事だ。Aお前のために神様に祈り、その時ごとに感謝している。Bママはお前を 信じている。君が誇らしい。
【子供をダメにする言葉】@君が上手なことが、何かあるのか。Aこの子、ばかなの。お前を見るとうんざ りする。B気に入るところが一つもない。
【親が傷つく言葉】@お父さん、お母さんが私にしてくれたのが、何があるの?Aお父さん、お母さんが恥 ずかしい。
【親が幸せに思う言葉】@お父さん、お母さん、一番尊敬しています。お母さん、大好き。子供たちに思わ ず投げた言葉が傷にならなかったでしょうか? 子供たちを呪いに追い立てることもできるということを覚 えておいてください。
信頼の言語、肯定的言語、祝福の言語、創造的言語を話すことができるようにしなければなりません。生きるのも死ぬのも舌によります。歴史的に成功した人には、その背後に成功の言語があったし、失敗した人には、失敗の言語がありました。言葉は見えませんが、無限に創造的で、力を持つ最大のエネルギーです。言葉は人の運命と環境を変化させます。
私たちには奇跡の言葉、成功の言葉、神秘の言葉があります。私た
ちには、このような言葉があります。それでは、この能力の言葉をど
のように発揮したらいいでしょうか。
まず一番目は、口で是認することです。是認は神様を認めるということです。是認して呪いを退けて祝福を受けるのです。他人を是認するということは認定するということです。励まして誉めるのです。誠意の言葉は勇気を与え、希望と慰労を与え、傷を癒やします。教会でも多様な意見があり得るでしょう。しかし教会は正しいことを言う所というより、恵み多い言葉を言う所です。
自分を是認する時、私の中で奇蹟が起きます。神様を是認する時、神様は私たちを救援してくださいます。
二番目は、奇跡の言語、成功の言語を宣布すれば、奇跡が成就します。奇跡の主人公になりたいですか? 勝利の主人公になりたいですか? 奇跡の言語、成功の言語を使いましょう。考えるだけでなく、宣布しましょう。「幸せだ」と言えば幸せな人になります。感謝の言葉を言えば、感謝の心がほとばしります。美しい言葉を言えば、美しい人になります。
三番目に、命令するのです。頼みや物乞いをしないでください。イエス様が「サタンよ、退きなさい! 風よ、やみなさい。波は静かになりなさい」と命令されたようにするのです。このように認めて、宣布して、命令するのです。必ず覚えておきましょう。私たちは天の人です。神様の子女です。天一国の主人です。天の言語があります。言葉の権勢があります。言葉の力がある人です。周りの人が大事ならば、大事な言葉を使いましょう。宣布しましょう。命令しましょう。言ったとおりに成るでしょう。「お前の言葉が私の耳に聞こえたとおりしよう。疑わずに行えばそのままになる」。
ありがとうございました。