
世界平和統一家庭連合 森 源八
<2012 冬季説教集より>
訓読:父母様のみ言から
私が与えても恥ずかしがる心の姿勢、もらえば恥ずかしく、おそれ多くて、どうしたらいいのか分からないという心の姿勢を常にもって生きる人が、感謝の生活をする人です。
このような人を通して新しい歴史が展開するのであり、このような内容を通して天国が成し遂げられるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。それゆえに皆さんは、自分が処している位置で、涙を流しつつ感謝しなければなりません。
あまりに足りない自分に望みもしなかったものを整えてくださった神様に対して、感謝しなければなりません。恥ずかしさを感じながらもらったので、与えながらも恥ずかしさを感じることができる心の姿勢をもつ人は、絶対に滅びることはありません。そのような人は、感謝する生活をせざるを得ないということを、皆さんは知らなければなりません。もし、アダムとエバが『取って食べてはならない』という神様のみ言を聞いたとき、このみ言を感謝して受け、あまりにも高く尊いお方が『恥ずかしい我々に、このようなみ言を下さるとは』と言って、おそれ多い心で頭を垂れ、自分たちは慎重に行動しようという心をもって生活していたとするならば、堕落はしなかったはずです。
(中略)
歴史過程には立派な人々がたくさんいましたが、与えても足りないことを感じ、もらうときは有り難く受け取る人がいなかったのです。その格好はどうであっても、感謝してもらい、有り難くもらう人のみが神様を愛することができるということを、皆さんは知らなければなりません。
将来、私たちは何を誇るのでしょうか。神様が下さるものをいつでも感謝して受け取り、いつでも有り難くもらえることが私たちの誇りであり、また、有り難く与えられる心をもったということが私たちの誇りです。このような伝統を立てていく皆さんであるならば、その伝統は、世界の歴史とともに切れることがなく、永遠であることでしょう。そのように生活する人のみが、神様に感謝する生活をなす人です。
私たちが世界に残ることができる道は、全てのことに感謝する生活をする道だけであるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。生死の問題を中心として堕落したことが起源となり、このような曲折の道をつづってきたのですから、これを越えていくためには、現実を否定し、未来を肯定しなければなりません。現実において未来を肯定する心を受け継ぐためには、感謝する思いで、『全てを与えられる』という心をもたなくてはなりません。このような心がなくてはならないというのです。これを知って実践していく人は、間違いなく神様の息子、娘となれるはずです」(1970年10月25日)
皆さん、おはようございます。きょうの題名は「感謝の信仰生活」です。
お母様は感謝ということを何度となく強調されています。
お母様の人生そのものが感謝の生活であり、お母様が勝利された秘ひ 訣けつ中の秘訣が、この「感謝」にあったのだと思います。
それできょうは感謝について、まず三段階という観点から考えてみたいと思います。
まず第一段階としては、恩恵があったら感謝をする。これは一般の人でも当然するでしょう。
しかし、一般の方は「ありがとうございます。おかげで助かりました」と言って、目の前の人に感謝しますけれども、私たちはさらに神様にも感謝します。自分の子供が無事に生まれた、孫が無事に生まれた。子供が成長して小学校に入学した。あるいは難関を突破して、何々大学に合格した。
これはうれしいことで感謝すべきことですが、神様に感謝を捧げることを決して忘れてはなりません。
その時、ただ感謝するのではなく、謙虚である、謙遜であるということが必要です。
このような恩恵と恵みを受けるにふさわしい私たちではないにもかかわらず、そのような恩恵と恵みを頂くことができた。このように思うべきでしょう。
お父様はこのように言われました。「あまりに足りない自分に望みもしなかったものを整えてくださった神様に対して感謝しなければなりません。恥ずかしさを感じながらもらったので、与えながらも恥ずかしさを感じることができる心の姿勢を持つ人は、絶対に滅びることがありません。そのような人は感謝する生活を忘れないということを皆さんは知らなければなりません」「もし、アダムとエバが取って食べてはならないという神様のみ言を聞いたとき、このみ言を感謝して受け、『あまりにも高く尊いお方が恥ずかしい我々にこのようなみ言を下さるとは……』と言って、恐れ多い心で頭を垂れ、自分たちは慎重に行動しようという心をもって生活していたとするならば、堕落はしなかったはずです」
このように恩恵に対しては謙虚さと謙遜さと持つことが大切です。
これが第一段階だとすれば、第二段階は何でしょうか。
第二段階は何もなくても感謝するということです。
恩恵があって感謝するのは、ある意味、当たり前でしょう。しかし、何もなくてもいかに感謝していけるか。
きょう私は礼拝の場に来るのに電車に乗り、橋を渡り、116段の階段を上り、1時間かけて来ましたが、その間、特別に良いことはありませんでした。しかし、電車を造ってくれた人や橋を架けてくれた人、そして階段を造ってくれた人がいたおかげで、1時間で来ることができたのであって、そうでなければ、私は昨夜、自宅を出発しなければ、この時間にここには立てないのです。
何事も良いことが起こっていないようだけれども、実は神様によって支えられ、生かされているという、感謝すべき内容がたくさんあるという話です。
ですから一段階目の恵みを下さった神様を、分かりやすく、「見える神様」と表現するならば、二段階目の神様は「見えない神様」と言えるでしょう。
「見える神様」に感謝するだけではなく、「見えない神様」にも感謝するのです。神様はシャイな方です。「俺がやった」と出てこない方です。姿形を現さずに、謙虚に、謙遜に、神自らが、分からないように、私たちを生かしてくださっています。ですから、私が「見えない神様」をあちらこちらに探し出して感謝しないといけないというのです。そのように、何気ない中に神様を発見できる感受性を持ちたいものです。
三段階目は試練があってもいかに感謝できるかです。
困難な状況に陥ったとしても、難しい局面に放り出されたとしても、いかに感謝できるかということです。「見える神様」に感謝、「見えない神様」に感謝、そして三番目は「居ない神」に感謝ということです。
神様が居ないわけではないけれども、神に捨てられたような、神がどこかに行ってしまったような、そういうような状況で、「神も仏もあったもんじゃない」というような状況で、いかに神に感謝するかということです。
昔、中村久子さんという、手足のない方がおられました。
五体が不満足であるということのゆえに、苦労をたくさんされましたけれども、そのことから得るものがたくさんあったというのです。そのことで人間として成長して磨かれたというのです。むしろ手足がないことが自分の財産だというのです。人生というものを恨むことなく、肯定的に捉え、多くの人たちに夢と希望と力を与える人になったという話です。
貧しい家に生まれた人は、努力したら立身出世もあるでしょう。しかし、手足は生えてきません。
心を変える以外ないのです。そして、心さえ変わるならば、五体が満足な人以上に立派な人間にもなるし、多くの人に影響を与えることもできるという話です。
人間の精神の素晴らしさ、心の素晴らしさ、環境とか肉体がどうのこうのという問題は我々にとっては言い訳でしかないということを教えられます。
私たちも、困難や試練があっても神に感謝していくのです。
「神様、私よりもあなたのほうがもっと困難なのでしょう?」と、自分が困難な状況にあっても、神様の事情を考えてあげることができ、「私はこれくらいのことでは負けないので、神様、大丈夫です」と、むしろ神を慰める、そのような者がいたら、親としては、その子供を見てどう思うでしょうか。親であるならば、子供にああもしてあげたい、こうもしてあげたいと思うでしょう。しかし様々な事情があって何も買ってあげられない。いつも同じ物しか着せられない、穴の開いた物しか着せられない、ろくな文房具も買ってあげられないと思うのです。しかし、子供が「お母さん、いいよ。それでも僕は一生懸命勉強するからね」と、そういう子供の姿を見たら、親は泣けてしょうがないでしょう。
恵みがあった時に、神様に感謝する。何事もなかった時に、神様に感謝する。どんな困難が起こっても、神様に感謝する。これで一応三段階ですが、実は、さらにもう一段階があります。
お父様は「神様に感謝される者になれ」と言われました。ですから四段階目は、神様から感謝される私にいかになるかです。お父様は生前、自分が霊界に行ったときに神様とどのように出会うかということを考えているとおっしゃいました。その時に、自分が神の玉座に走って行くのか、それとも神様が、その玉座から転がり落ちるようにして私のほうに走ってきて、私を抱きしめて迎えるのか、どのようにして神様と出会うのか、というみ言があります。
私が霊界に行った時に、神様から「お前は地上でそのような困難な道でありながらも、信仰を棄てずに、曲げずに、事情もよく分からなかったにもかかわらず、感謝しながら一途に歩んだ。お前に話してあげられなかった、いくつもの事情がある。今だからこそ、やっとお前に話せる」と言って、神様が泣きながら、地上にいた時にああもしてあげたかった、こうもしてあげたかったけれどもすることができなかった事情の全てを、霊界で私たちに感謝しながら語ってくださるような場面がなければならないでしょう。
傲慢かもしれませんが、そういうことを夢見ながら、私たちは地上における信仰生活の質を高め、神様との父子の深い絆を結んでいきたいものです。
以上のような四段階の感謝の生活をすることが、私の「孝の生活」です。
生涯を感謝で歩む孝子・孝女となりましょう。