2015年11月28日

信仰は福を受ける器

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 世界平和統一家庭連合 鄭 光根

<2009 冬季説教集より>

きょうのみ言の題目は「信仰は福を受ける器」ですが、その意味は何でしょうか? 創造原理を見ますと、神様が下さる祝福を受けるためには、最小限(5%)の人間の責任分担をしなければなりませんが、
この人間の責任分担とは何か、二つの内容で圧縮して話すことができます。
 

  第一は、祝福に対する神様のみ言を絶対的に信じることであり、第二は、神様のみ言を絶対的に信じるその基台の上に、神様のみ言のとおりに絶対服従(絶対実践)する過程が必要だということです。

 例えば、神様はアダムとエバに成育しなさい、繁殖しなさい、万物を主管しなさい、という三大祝福を下さいましたが、実際にアダムとエバがその祝福を自分のものにして完成するためには、まず「善悪の実をとって食べるな」という神様のみ言を絶対的に信じることと、次に、その神様のみ言の前に絶対服従(絶対実践)することが必要でした。それによって、アダムエバは神様が下さる三大祝福を完成することができるのです。

 ところが、アダムとエバは、その最小限(5%)の人間の責任分担を果たすことができなかったために、神様が下さろうとする祝福を受けることができませんでした。すなわちアダムとエバは神様のみ言を不信し、その不信は不服従につながって、結局、善悪の実をとって食べて堕落してしまいました。

 アダムとエバの例に見られるように、人間が神様の祝福を自分のものとして完成するためには、まず神様のみ言を絶対的に信じて、またそのみ言どおりに絶対的に実践(服従)する過程が必ず必要です。
そのため、 「信仰は福を受ける器」と言うことができるのです。
 それで、私たちが天から祝福を受けるとき、受けられる祝福の大きさは、結局、自分が持っている信仰の器の大きさによって決定されるようになるのです。なぜならば、原理で言う救援と完成というのは、信仰(神様と私との関係性を回復すること)を高め、実体生活において実践することによって、私たちは救援を受けて自分を完成することができるからです。
 そのために信仰の大きさと実践の大きさは比例し、実践の大きさと救援と完成、すなわち天から受けることのできる祝福の大きさは比例するため、「信仰は福を受ける器」(結局、信仰の大きさに祝福の大きさが左右)だと言うことができるのです。何のことか、おわかりですか?

 聖書のヤコブの手紙2章17節に、「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」と記録されています。
皆さん! み言の前に一生懸命信仰の基準を立てて、み言どおり実践して神様に服従しながら生きた人と、そうでなく適当に信仰のまねだけしながら信仰をしてきた人が、同じ基準の祝福を受けることはできないのです。そうでしょう? それはだれよりも自分自身がよくわかることであり、それは霊界に行けば決定がなされるようになるのです。

 そのため、結局、私たちの信仰が死んだ信仰ではなく、生きた信仰になるためには、信仰の教えどおりにどのくらい実践をしてきたのかが何よりも重要なことになります。
 そのような意味から、私たちは来る10月14日、「真の父母様天宙祝福式」という、とてつもない祝福を受けるために三つの条件を備えていかなければなりません。

 まず祝福を受けるための私たちの心構えの第一の条件は何かと言えば、「悔い改め」です。
 きょう、祝福式に対する宋榮錫総会長様のメッセージにもありましたように、「今回の祝福は不足で罪の多い私たちをサタンの讒ざん訴そ 条件から解放させてくださるための恩赦の祝福」であるため、祝福を受け
る私たちの第一番の心構えは深い「悔い改め」から出発しなければなりません。「私は悔い改めることが何もない」という人はいないでしょう?
 そして祝福を受ける私たちの第二番目の心構えは「感謝」の心、心からほとばしる感謝の心を持つことです。今回下さる祝福の細かい恩赦の内容に対しては、まだ発表がされていない部分がありますが、いずれにしても祝福というものは、真の父母様がサタン世界と戦って復帰してこられた勝利圏と天運を相続してくださるものであるために、私たちはそのような祝福と恩赦を下さろうとされる真の父母様の前に、心からほとばしる感謝の心を持たなければなりません。
 第三番目は、このような「悔い改め」と「感謝」の基本的な心構えの上に、私たちはきょうのみ言の題目「信仰は福を受ける器」のとおり、天が下さろうとする祝福を受けることのできる受け皿を準備して
いかなければなりません。 この受け皿を準備するために、私たちは内外の精誠(祈祷、敬拝、断食などの内的精誠や伝道活動などの実践)を捧げながら祝福の日を迎えていかなければなりません。

「あらん限りの誠を尽くして、誠の種を蒔けば実を結ぶ。誠を尽くしたものは、征服することができない。誠を尽くしたものは、誠を尽くした人のものである。誠の基台はサタンも決して奪うことができない」(『御旨の道』「信仰生活」、p.359)
 というお父様のみ言にあるように、私たちは天が下さる祝福に対してサタンが讒訴することができないように、またサタンが奪っていくことができないようにするために、内外共の精誠を通して祝福を受けることのできる受け皿を準備していかなければなりません。

 原理で、メシヤを迎えるためには先に「信仰基台」と「実体基台」を造成しなければならないように、私たちがメシヤを迎え祝福を受けるためには、その祝福を受けることのできる受け皿(信仰基台と実体基台)を先に準備していかなければなりません。
 まず「信仰基台」を立てるためには「象徴献祭」という条件物が必要になりますが、象徴献祭は自分の身代わりの祭物(自分の身代わりになるほどの貴い価値を持ったもの)を信仰によって天の前に捧げていくことです。

 そのため、この象徴献祭を成功させるためには、何よりも神様のみ旨のために自分を否定することのできる基準(信仰の器)がなければなりません。

 このように、神様のみ旨のために自分を否定する基準を立てることによって、象徴献祭が成功して「信仰基台」が立てられるようになるのです。
 そして二番目に、私たちがメシヤを迎えて祝福を受けるためには「実体基台」を立てなければなりませんが、実体基台には実体(人間)献祭の条件物が必要になります。私たちは今回、祝福式に対するお父様のみ言のように「親族16親等(すべての氏族)がこの祝福式の場に同参できるように」活動していかなければなりません。私たちは今回の祝福式を氏族的メシヤの勝利のために、一歩前進することのできる機会として積極的に活用して、アベルとしてカイン(氏族)を連れて天の前に行かなければなりません。

 今回、祝福を下さる神様と真の父母様が私たちに最も願われることは、きょう話した深い「悔い改め」と心からほとばしる「感謝」の心を持って、精誠(天の願いの前に、自分の基準を一直線に合わせるために捧げるもの)を捧げながら、天が下さる祝福を受けることのできる最善の器を準備することです。
 きょうのみ言の題目「信仰は福を受ける器」のとおりに、私たちはディスカウントのない信仰、信仰の基準がディスカウントされれば、天が下さる祝福は、よりディスカウントされるということを知って、絶対信仰と絶対服従(絶対実践)の受け皿に、天が下さろうとされる祝福を存分に受けて、自分のものとして完成していくことのできる私たちになっていきましょう。
posted by ffwpu at 13:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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