2015年10月10日

感謝する生活

浜田・朴用浩教会長ー1.jpg
 世界平和統一家庭連合 朴 用浩

<2012夏季説教集より>
訓読:『天聖経』「真の孝の生活」p.2112〜2113
「それで、世界のために忠誠を尽くす神様の息子、娘をお迎えして、
神様が祝福してくださり、神様が誇ることができるその日を迎えなけ
ればなりません。
そのようにして、初めて韓国に安息が展開するというのです。
皆さんが、3000万民族が世界のために忠誠の道理を果たして、
世界万民が、『韓国によって自分たちも神様の息子、娘になった』
と言って、忠誠を尽くせる環境の基台を迎えるようになる時、初めて
韓国に安息の基台が展開するというのです」(1965.10.31)

神様のために忠誠を尽くすことにおいては、1歩も譲歩できない
という信念をもたなければならないというのです。
どのような人、どのような忠臣、誰よりも私がより1歩、わずかでも先んじなければなりません。
地上で生きていった霊人たち、地上で一生懸命に仕事をしていった霊人たち以上に、その人々が国のために忠誠を尽くし、すべての公的な仕事に一生懸命に働いた、それ以上に実践しなければならないというのです。
わずかでも多くしなければなりません。鉄則がそうなのです」(1978.11.26) 


 ある歌手についてのお話を少しします。
 2008年12月17日、東京のあるコンサートホール。
歌が終わった瞬間、感動の涙を流しながら起立し、盛大な拍手を送りました。
歌った彼に対して全観客が起立し拍手を送りました。
テノール歌手べー・チェチョル、日本とヨーロッパでとても人気がある有名な歌手で、アジアで100年に一人出るかどうかの声楽家と言われています。
 しかし彼は、ドイツで活動をしていた2005年に突然甲状腺がんにかかり、ドイツのある大学病院で8時間もかかる大手術を受けました。
その過程で声帯に付いていたがん細胞を除去したのですが、そのとき同時に声帯神経が3センチくらい切り取られてしまいました。退院後、しゃべろうとしても口からは、風の音のようにスースーとするばかりで、音になりません。歌うどころか人と話すことも難しくなりました。
命には問題ないと言われて心配せずに手術を受けましたが、声を失うことになるとは夢にも思わなかったそうです。声が命である声楽家として全てを失ってしまったのです。
手術後、自分自身の一番大事なものを失ってしまったときに、初めて自分自身を振り返ってみたそうです。

 クリスチャンである彼は、神様がジャストタイミングで自分の歌手活動を止めさせてくださったと反省しました。いつの間にか自分も知らずに神様から離れた生活をしてきたことを反省し、告白しました。
 幼い時から信仰生活をしていたけれど、そのうちたくさんの人々から愛され、注目を受け、自分の仕事に夢中になって、だんだんと神様から遠くなってしまい、自分の栄光の瞬間の時には完全に神様を忘れてしまい、神様と共にすることも、その栄光を神に帰すことができなかったと言いました。

 絶望の瞬間を迎えて、初めてべー・チェチョルさんは再び神様を探すことになり、神様に栄光の瞬間を差し上げたい強い心で、もう一度舞台に立ち上がりたいと決意しました。
日本からも支援金が集まり、特に日本のYさんを中心にたくさんのファンの支援により、長時間かけて再び手術を受けることができました。

 声を取り戻したら、最初に神様を讃美する歌を歌いますと約束しました。
手術後、病院の先生が歌を頼むと、小さな声でしたが声が出てきました。
 感激の涙を流しながら歌った曲が、「神がつくられた全ての世界」という曲でした。
日本のNHKでも放映されましたが、ある一人の日本人は、「今まで私はクリスチャンだということを誰にも言えなかったのですが、べー・チェチョルさんを見て、クリスチャンであることを堂々と告白していくことを決心した」という話もありました。

 今、直接伝道を推進していますが、皆さん、どうですか?
 われわれはいつからか、感動や感謝の心が消えてしまったのではないでしょうか。
もちろん全部ではないと思いますが、なぜ日々感謝ができないのか、理由がどこにあるのか、と考えたことがありますか?
 感動の涙を流しながら原理を聞いて、恩恵を受け、喜びに満ちて天に、真の父母様に忠誠を誓った人々に、なぜ今は感動の涙が見えないのでしょうか?
 み言が間違っているのでしょうか。どう思われますか?
 原理、み言と一つにならなかったからです。
今、私たちが感動や感謝ができない理由は、どこにあるのでしょうか。
 一つは習慣的な生活です。
どんな衝撃的な摂理や大会など、天の声があっても、この世の習慣的な生活におぼれてしまい、感謝ができないのです。心が硬くなっていて動けません。

もう一つは、自分というものがあるからです。
自分というものがあって、目があっても摂理を見る目がないし、耳があっても天の声が聞こえないし、口があっても証しができない、絶対服従ができません。
この自分というものをなくす訓練が絶対に必要です。
どんなに長く信仰生活をしても、まだ自分というものがあるとしたら、もう一度、自ら悟り、改めて出発しなければなりません。天と真の父母様と一緒に行くことができません。

 べー・チェチョルさんのように、自分が悟って天に感謝の心で戻ったときは、その何倍もの恩恵を受けるのです。
 ありがとうございました。




posted by ffwpu at 16:39| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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