2015年09月12日

信仰の恵みを証ししよう

矢野治佳伝道教育局長.jpg統一教会
 矢野治佳
訓読:「天地人真の父母定着実体み言宣布大会」のみ言から抜粋

 「皆様、真の父母様は、既に人類のための遺言を準備し残しました。一生に六度七度も生死を行き来する獄苦を経ながらも勝利し準備した遺言です。永遠なる人類の教材教本として八種類の本を残しました。
……『文鮮明先生御言選集』、『原理講論』、『天聖経』、『家庭盟誓』、『平和神経』、『天国を開く門 真の家庭』、『平和の主人、血統の主人』、『世界経典』、以上八種類の書籍です。これらの教本は、皆様が霊界に入っても読み、学ばなければならない本です。決して人間の頭脳から出てきた言葉や教えではありません。天がかわいそうな人類を救援するために下さった天道を教える教本だからです



 イスラエル民族、第二イスラエルとしてのクリスチャン、そして私たちは第三イスラエルとして神様から選ばれました。天一国実現を前にした私たちの歩みは、よくイスラエル民族の出エジプトに例えられます。

 出エジプト記12章37〜38節を見ると、ヤコブの子孫としてのイスラエル民族とともに「多くの入り混じった群集」も共についていったとあります。乳と蜜の流れる地に自分たちも行きたいと願ったのでしょう。彼らものちにはイスラエルに入っていったとすれば、「イスラエル」とはヤコブの子孫という血統によるものだけではなく、信仰によるものであることがわかります。私たちも、本来願われた民がクリスチャンであったとすれば、「多くの入り混じった群集」になるのかもしれません。

 そして荒野の流浪生活の中で、神様は十戒を与えられました。十戒を記した石板を納めた契約の箱を信仰の中心として彼らは歩んでいきます。ヨシュア記23章6〜16節を見れば、神様がイスラエルに願われたことは、世俗化しないことと、血統を遵守することでした。私たちも、今、八大教材教本を中心とした「天福函」を与えられ、家族が訓読の基準を立て、純潔を守り、世俗化されないどころか、祝福の恵みを拡大することを願われています。

 さらに、12部族がカナンの地に定着していく時、イスラエルはシケムで自分の仕える神を選びました。ヨシュア記24章14〜5節、24〜5節に、その様子が記録されています。ヨシュアは全部族をシケムに呼び集めました。そして民に尋ねます。「あなたがたは、主を恐れ、まことと、まごころと、真実をもって、主に仕え、あなたがたの先祖が川の向こう、およびエジプトで仕えていた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたたちの住む地のアモリ人の神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは主に仕えます」。それに対して民は答えます。「わわわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」。

 私たちも天一国を前にして、同じ問いを受けているのではないでしょうか。「あなたは何に仕えるのか」と。天地人真の父母様と八大教材教本を中心として、イスラエルの民のように「私たちは天地人真の父母様に仕えます」と自分の意志で決意しなければならないのではないでしょうか。

 真の父母様は神様を解放されました。真の子女は真の父母様を解放されるために歩まれています。そしてカインの子女としての私たち祝福家庭の勝利が願われています。そのために今必要とされているのが、「僕の信仰」から「実子の信仰」への転換です。僕は良いものしか相続しようとしませんが、実子は良いものも、悪いものも相続しようとします。僕は指示された内容しかしませんが、実子はプラスアルファの姿勢で積極的に取り組みます。僕は困難になると否定的になりますが、実子は父母に対して「難しい」、「疲れた」と言わず、感謝して歩みます。

 さて、今の時代は価値観を持たない時代といわれます。価値観を持たず責任感のない人、人のせいにする人、それゆえに尊敬されない人が増えています。価値観を持たないので、損得を超えたもの、命を超えるものがあることを知りません。だからこそ、自分の価値観をしっかりと持って他人とコミュニケーションできる力と、マナーを持った人が求められています。

 実は、私たちにはみ言を中心として、しっかりとした価値観が与えられています。それを率直にぶつけてみることが必要ではないでしょうか。直接伝道とは、別の角度から見ると、「証しする伝道」です。真の父母様は途方もなく大きな実績を持っておられます。私と遠い人は父母様を証しすることで済むかもしれません。しかし、家族、氏族、知人、友人は、「文先生のことはよくわかった。ところで、あなたは幸せなの?」と聞いてきます。身近な人は世界のことではなく、私のことに関心があるのです。私の実績が必要となるのです。どんなに小さくてもよいので、私の信仰の証しを立てましょう。ぜひ、食口の48の証しを集めた『神様に愛された日』(光言社)を参考にしてください。

 証しというと、私たちはすぐにみ言の基準と理想から考えて、「私にはできない」と考えがちです。しかし、大切なことは「私はどう生きたいか」ということではないでしょうか。

 昔、聞いた話ですが、ドイツでのこと、第二次世界大戦後の同窓会で、自分たちの恩師と同じ名前の人がナチスに抵抗して亡くなった記事が話題になりました。皆は「あんな憶病な先生であるはずがない。同姓同名の別人だ」と笑ったそうです。しかし、ある人物は、それが当人だと確信しました。それは先生と一緒に山に登ったことがあり、ふと出来心で困らせてみたくなり、隠れてしまいました。すると、おびえてうろたえる先生が「こんな憶病な私が、イエス様のために何かできるのだろうか」とつぶやいたというのです。その一言が、とても深く心に残っていたのです。

 いつも強がっている人が強いのではありません。できなくて泣いている人が、そのことのゆえに勝利できることもあるのです。

 人に出会って、自分の考えていることを率直に話してみましょう。そこから道は開けてきます。私にしか伝道できない人が待っています。新しい一週間を元気に出発してまいりましょう。ありがとうございました。


posted by ffwpu at 10:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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