熊谷栄佐雄
<2010 夏季 牧会者説教集 P.92~95>
聖書拝読:コリント人への第一の手紙9章15〜27節
「しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇ほこりは、何者にも奪い去られてはならないのだ。わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。
もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務つとめなのである。それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には──わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが──律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人
かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」
真の父母様の「神様の涙の色を知りたい」という祈祷を聞かれたことがあると思います。その意味をどのように考えたらよいのでしょうか。
きょう読んだ聖句は、何度読んでも非常に感じるものが強い聖句です。パウロがどのような人であったか、イメージとして浮かびやすい箇所が、ここだと思います。彼はこのように言っています。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった」。ですから弱い人には弱い人になったし、律法の人には律法の人になったのです。なぜでしょうか。それは何とかして、幾人かでも救うためです。「福音のために私はどんなことでもする」というのがパウロの精神です。最後に、「ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」と述べています。競技者にたとえて、すべて競技をする者は何事にも節制をすると言っています。これはそのまま、私たちに当てはめなければならないと思います。
人格完成を目指し、愛の真の家庭をつくろうと頑張っているにもかかわらず、何かわからないけれど恨みが取れない、口にも出てしまう。これは求めようとしている目標に逆行しています。これが生活の中に習慣化してしまった場合には、なかなか大変です。
なぜパウロは、こういうことを告白するに至ったのでしょうか。パウロという人は、この内容を見ると、常に最前線、伝道の最前線に立っていたことがわかります。ですから語るだけではありません。一人の人を得るためには、どんなことでもすると言っています。これは尋常ではありません。私たちは肉体がありますから、常に食べなければならないし、寝なければなりません。常に制約があります。親もいれば、子供もいます。いろいろな環境があることは否定できません。
では、パウロはどうだったでしょうか。パウロにも、制約される事情があったに違いありません。彼は、あなたはユダヤ人なのに、なぜギリシャ人を伝道するのかと言われたり、イエス様を迫害していたと言われたりと、行く所行く所で悪口を言われました。限られた生活の中で、難しい環境を抱えていたことは間違いありません。しかし、彼はそれ以上に、人を復帰することに熱心で、常に最前線に立っていました。一人の人を復帰するために、どんなことでもしたのです。
「神様の涙の色を知りたい」という真のお父様のお祈り……。そこに、神様と真の父母様の心情の深さが理解できます。なぜ神様の涙を知らなければならないのでしょうか。お父様のみ言のすべては、まず神様です。その神様の微妙な動きに対しても、お父様は敏感です。今、何を、どのように思われているのか、神様の心のひだはどのようになっているのだろうか。常にそれに思いをめぐらせるお父様です。
神様の涙を知ろうとした動機の背後に何があるのでしょうか。神様と私は親子であった。そして、その親はただの親ではない。ぼろをまとい、年を取った、そして血だらけの親です。血だらけにならなければならないその理由は、私のためなのです。今も苦労しておられる、神様の強烈な、私たちに対する親の愛を感じたときに、真のお父様は神様の涙を知りたいと言われるのです。
神様は、人間を何とかしなければならないと思って右往左往する、そういう神様ではありません。私を救うために、何でもされる神様です。私が右に行けば神様も右に行くし、私が左に行けば神様も左に行きます。私が地獄に行くとするならば、地獄にまで降りていって私たちを救おうとされる、そういう神様です。ですから、神様は常に最前線です。最前線というのは軽いものではありません。私たちの髪の毛を一本でもつかんだら、絶対に離しません。この人を導こうとした神様は、どれほど深刻だったでしょうか。
み旨のために苦労した人を、神様が見捨てるでしょうか。もしそうであるとするならば、神様なんているはずがありません。そういう人たちこそ、神様の涙の色を知ることができる人だと思います。私たちの心が神様に向かって一歩進み、真のお父様のように、「神様、あなたの涙は何色ですか」と、そういう心情で神様を尋ねていったならば、神様は、神様の涙の色を見せてくださるに違いありません。
私たちは、常に最前線に立っています。パウロと同じです。その一人を復帰するためならば何でもするという精神を持たなければならないと思います。そのために流した私たちの涙は、神様の涙の色ときっと一致するに違いありません。
私たちは今、神様と同じ色の涙を流さなければなりません。パウロがそうであったように、一人でも神の前に救いをもたらしめるために何でもする、こういう精神が必要だと思います。耳を大きくして神様の声を聞き、私たちがなさなければならない責任をはっきりさせて、きのうよりもきょう、今週よりも来週、先月よりも今月はもっと……。「私たちは神様と同じ色の涙を流しました」。このように報告できるように頑張らなければならないと思います。