山田佳彦
<2009 冬季 牧会者説教集より>
家庭において、教会において、職場において、心が一つになり、行動が一つになり、目的が一つになれたら、どれほど幸せでしょうか?
どうしたら、家庭、教会、職場で、神の愛、神の知恵、神の力を得ていくことができるのでしょうか?
宇宙発展の法則を『原理講論』の中では、授受作用で説明しています。(『原理講論』「授受作用」p.50-51)
万有引力は引力によって中心に引き寄せられる力です。では、万有原力はどのようなものでしょうか。すべてのものが有している力の源というように記されています。原力というものが創造主の神様にあって、それを被造物のあらゆるものが有しているのです。形状的にはエネルギーと表現し、性相的には心情と表現できます。
「心情」とは何かと言えば、「愛を通して喜びを得ようとする情的衝動」と定義されています。火山が大爆発するように、また、清い湧き水があふれ出すような、もう抑えがたい「愛したい!」という衝動のことを表現しています。
創世記によれば、創造の6日目に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ』」と記されています。人間創造の時に、神様は「はなはだ良かった」と言われたと記されています。人間を創造した時だけ「はなはだ良かった」と言われています。神様が人間に対して、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」と言われたとあるように、万有原力は人間が、三大祝福を実現するためにある力の源ということができます。つまり、人間が個性完成、子女繁殖、万物主管する力と言うことができます。
神様は、「愛したい!」という情であふれています。「愛したい!」という衝動は抑えがたいものです。神様自身がそのような原力を持たれた方なので、神様から創造されたすべての被造物、すなわち人間、動物、植物、鉱物などすべてが、「愛したい!」という衝動が満ちあふれているわけです。皆さんも、だれに教えられたわけでもないのに「愛したい!」という衝動があるでしょう。それは、動物も、植物も、鉱物も同じです。
ところが、せっかく万有原力を与えられ、有していても、「授受作用」なくしては、愛、希望、感動、力を持ち、感じることができないのが、この宇宙の原則です。授受作用が大切であると知っていても、間違いを犯しやすいことが多々あります。神様のみ旨(三大祝福の実現)を知っていたとしても、神様を中心として良く授け良く受けているかが問題となってきます。神様の三大祝福を実現したいと思って授受し、会話をしているかというと、そうではない場合が多いのです。一方的に話し過ぎたり、聞いたふりをすることが多いのではないでしょうか?
自己の経験的価値観を中心として、一方的に話して、一方的に聞くふりをするのでは良くないのです。形式的、時間的、物理的には、良く授け、良く受けたつもりでも、時間がたつと次第に、「〜してあげたのに!」「聞いてもらえなかった!」という思いが出てきます。これは中心が間違っていた証拠です。
授受作用のポイントは、神の目と、神の耳と、親なる神の心持ちで、相手を良く信じないといけないことになります。逆に、受けるほうは、素直な心、感謝の心で受けないといけません。信じて与えないといけないし、返ってきたものは、屈折しないで素直に思えないといけません。そして、授受作用をしてお互いに共感し、喜び、希望にならないといけません。
ある失敗例です。ある父親と息子が、息子の宿題のことで会話をするときに、父親は主体の立場で子供に「宿題を早くしなさい」と言うと、子供は対象の立場で「はぁーい、わかった」と答え、授受作用が行われたと思います。しかし、息子は「わかった!」と言ったにもかかわらず、いっこうに宿題をやりません。それで、父親は最後には腹を立てて子供をしかるようになります。ここでこの親子が授受作用をするにおいてうまくいかない原因は何でしょうか。この場合、言葉は授受作用ですが、お互いに心情が通じていないことに気がつきます。
父親は言うことを聞かない息子のために、神様に祈ってみたのです。すると、「宿題をしたくない本当の理由があるのだ。愛してごらん」という答えが来たのです。父親は、もう一度、「あなたは、なぜ宿題をするのが嫌なのか理由を教えてほしい」と優しく言いました。そうすると、子供はしばらくしてから、「実は、友達とトラブルがあって、それで宿題をやりたくなかったよ」と話してくれました。父親と話をしたあとに、息子は宿題を最後まで短時間で集中的にするようになりました。そのあと、この二人は強い父子関係を築いたのです。人間的な言葉は行き交っているけれど、相対基準を結んでいないので、授受作用が続かないし、発展はないのです。このような失敗例はたくさんあるのではないでしょうか。
大母様が先日、霊肉界マッチング修練会でこのようなみ言を話されました。「霊界に行ったら、夫婦一緒の方は一人もいませんでした」。この言葉を聞いたとき、ショックでした。生きている時には、夫婦として形は食事を共にして、長年、同居してきても、心がすれ違って生きていたのです。それで、霊界で夫婦が一緒にいることができなかったのです。このように、夫婦といえども、お互いに授受作用がうまくなされていない場合も多いのです。
主体と対象がお互いに信頼し、愛し、与えることができるか、心を素直に開いていくことができるか、これが重要です。このような授受作用を邪魔するのは、あくまでも自己の堕落性であり、恨霊です。言葉や、情報、形態は授受作用をしていても、授受作用したことにはならないのです。授受作用の本質は、主体と対象が一緒に発展し、喜びと力を得ることです。片方だけが、我慢したり、忍耐して、一時的に発展したとしても、限界が来ます。
『平和神経』には、次のようにあります。
「神様がいかに絶対者だとしても、独りでは幸福になることができません。『うれしい』という言葉や『幸福だ』という言葉は、独りでは成立しない言葉です。必ず相対的関係を備えた所に成立するのです。一生を声楽家として生きてきた人でも、もし無人島に捨てられ、独りで喉が張り裂けるほど歌を歌ったとしても、幸福でしょうか。
自存される神様も、喜び、幸福であるためには、必ず授け受けできる愛の相対が必要なのです。
とすると、絶対者であられる神様に喜びをお返しすべき相対者としての人間は、どのような姿でなければならないのでしょうか。神様が『息子よ、娘よ』と呼ぶことができ、御自身と同格の位置に立て、共に創造の偉業を完成することができ、天地万物をすべて相続させられる子女は、どのような姿でなければならないのでしょうか。
神様が、創造の理想的出発点をどこに置かれたのか、お分かりでしょうか。『相対のために存在する』という原則に自らの理想的出発点を置かれたのです。言い換えると、神様が願われた相対のために真の愛を実践することが、神様の創造のみ業を出発した核心だったのです」(平和メッセージ1)
お父様のみ旨の中で難しかったことは、自分自身ではなく、愛するお母様を立てることであったともいわれています。イエス様も愛する相対者を立てることができず、途中で十字架にかけられて殺されてしまったと言っても過言ではないでしょう。
自分自身が立つことよりも、相対を立てることのほうがもっと難しいのではないでしょうか。皆さんも、自分よりも相対である夫、妻が立派になっていくことが難しいでしょう。「相対のために信じ、犠牲になり、投入する愛」がなければ、成り立ちません。ただ、忍耐や我慢だけでは、難しいのです。常に、神の心情で、神の目、神の耳、親なる神の心で、夫を見ることができるか、妻を見ることができるか、子供を見ことができるか。そして、よく授けてこそ、親なる神様に出会うし、疲れないのです。相手を変えようとして行動すればするほど、失敗するし、疲れてくるのです。
主体格と対象格と二つが、神様を中心に、「一心一体一念」で一つになった喜び、感動、愛は、いかなるものにも代えられません。神様は絶対主体として、絶対対象の人間である私に、よく授けてくださっています。対象格である私は、よく受ける自分の器をつくってこそ、神の愛を感じます。そして、私自身も、親なる神様の心情で、祈って、授ける努力を、何度もしてみたときに、親なる神様の愛したい心情を知ることができるでしょう。いかにして、与えようかと、身もだえするときにこそ、私自身が、神様と「一心一体一念」となり、神の無限なる愛と知恵と希望と力と出会う喜びを得るのです。