2015年05月02日

最初の動機を貫き善なる実を結ぶ者

21河村政俊.jpg統一教会
 河村政俊
 <2009 春季 牧会者説教集>
   
み言訓読:『後天時代の絶対信仰』63 ページより
 「心と体が絶対に一つになることが最も重要です。これができなければ、すべて崩れていきます。それでは何を中心として一つになるのでしょうか。絶対愛を中心として一つになるのです。神様の絶対愛を中心として一つになるのです。絶対愛とは真の愛です。真の愛を中心として心と体が一つにならなければならないのです。そして、『私は、真の愛と一つになった体をもった』と言えなければなりません」

 私たちの信仰生活の目標は何でしょう。神様の真の愛の結実になることでしょう。そのためには、徹底的にために生きなければなりません。他のために生き切ってこそ価値を表せます。

 皆さんは汚い場所が好きですか、きれいな場所が好きですか。汚い場所をきれいにするには、雑巾で拭かなければなりません。雑巾は、自分を汚して周りをきれいにするのです。ぼろぼろになった雑巾は、どれだけ活躍し、どれだけ周りをきれいにしたことでしょう。雑巾としての価値を最高に示したのです。皆さんは『天聖経』を読んでいますか。きれいなまま祭壇に飾っているのなら、『天聖経』は喜んでいるでしょうか、悲しんでいるでしょうか。どちらだと思いますか。
 皆さんは、多くの人に必要とされ、慕われる人になりたいですか。その場合、毎日が忙しくなり、走り回り、疲れ果てるようなこともあるでしょうね。楽に生きようとすれば、徹底して軽視され無視される人になれば、だれも頼ってこず、苦労せずに何もしないで済みます。どちらがいいですか。忙しく苦労があっても毎日が充実していて、皆から喜ばれ、絶対に必要とされる人は、ために生きている人に間違いありません。

 ところで、真の父母様は、時々、「君たちの心と体は一つになっているの? 心と体が闘っている人、手を挙げなさい」と言われますが、私は何度も手を挙げながら、手を挙げないで済む時が来るのかなーと考えさせられました。そして、心と体が一つになるには、どうしたらいいのだろうと悩みました。

 み言では、真の愛を中心としてこそ、心と体が一つになれると教えています。しかし、堕落した私たち人類は、真の愛の本体であられる神様と断絶し、切れてしまった状態になっているので、神様の愛を実感できないでいるのです。今も昔もこれからも、神様の私たちに対する愛は変わりません。その愛を感じられないので感動もなく感謝もしないのです。神様から見れば、愛しても愛しても反応がなく死んでいるような状態なのです。信仰を持っている人は信仰によって、感じていなくても感じている人のように必死に従っていこうとしています。神様から見れば、死んでいたわが子が、かすかに神の愛にこたえて一生懸命に動き始めた、その姿を見て、神様は震えるような感動を受けて熱い涙を流しておられるはずです。しかし、動き始めたと思ったのに、途中でまた止まってしまう人もいます。神様は、そんな私たちを見ながら、どれほど心を痛めておられるでしょうか。

 どうしたら心と体が一つになれるのか。言行一致している人を人格者と言いますが、今の立場で努力する方法はないのかと考えました。そこで一つ皆さんも実践してほしいことがあります。言行一致するために、挑戦してほしいのです。それを説明するのに、一つの良い例を紹介しましょう。これは、肉じゃが事件というものです。

 ある夫婦の、ある日の出来事です。奥様が久しぶりの休みでのんびりしているご主人に、喜ばせたい気持ちでご主人の大好物の肉じゃがを作ろうと思い、真心を込めて作り始めました。ご主人は、のんびりと寝ころがってテレビに集中していました。ところが、そこで思わぬ事件が起きたのです。緊急の電話が鳴り、奥さんはすぐに出掛けなければならなくなったのです。それは、30 分ほどで済む緊急の用事でしたが、どうしてもすぐに出なければなりません。ところで、肉じゃがは、あと10 分ほどで出来上がります。そこで奥様は、急いでご主人のいる部屋のドアを開けて大きな声で言いました。「あなた、私、緊急で出掛けます。すぐ帰りますが、あと10分ぐらいしたら肉じゃがが出来ますので、必ず火を止めてください。あなた、いいですか?」。奥様は、ご主人が後ろを振り返ったので、分かったものと思い、急いで飛び出しました。そして、30 分後、帰ってみたところ火は消されておらず、肉じゃがは無残にも真っ黒焦げになっていたのです。

 さあ、奥様はどうしたと思いますか? 皆さんだったらどうしますか? テレビを見て無邪気に笑っているご主人の前に仁王立ちになって、鬼のような顔をして、「あなた、なぜ火を止めてくださらなかったの。あれほど、消してと頼んだのに、真っ黒焦げじゃないの。そのままだと火事になったかもしれないのよ」。この際とばかりに、今までの不満も含めて、まくし立てる奥さんの怒鳴り声に、最初は戸惑っていたご主人もやっと内容が分かって、怒り返し、「おれが久しぶりの休みにゆっくりとくつろいでいたのに、何だ。おまえの作る肉じゃがなんか二度と食うか」と言って立ち上がったと思うと、家を飛び出していきました。

 どうしてこんなことになったのでしょうか。最初は、主人を喜ばせようと思って始めたことなのに、結果は最悪です。さらに奥さんも、「あなたのためにと思って作ったのに、人の気持ちなんて全然分からない人だから」と言って責め合えば、肉じゃが離婚にまで発展しかねません。 何が問題なのでしょうか。どこから間違ったと思いますか。本当に賢く知恵深い奥様だったら、どうしたでしょう。真っ黒焦げの肉じゃがを前にして、考えなければなりません。この肉じゃがをどうして作るようになったか。それは、久しぶりの休みで、くつろいでいる夫を慰め喜ばせようと思った。そんな奥様の優しい気持ちが動機となって始めたことです。ここで動機を変えてはいけません。動機を守り通さなければなりません。その動機から気持ちをずらさずに対応すべきです。

 すなわち、夫の前に出て、手をついて謝りながら、「あなた、ごめんなさい。あなたのために、あなたの好きな肉じゃがを食べていただきたくて作っていたのですが、真っ黒焦げになってしまいました。どうしても行かなければならない急用ができて、火を止めてから行けばよかったのに、あなたに10 分後に止めてって叫んで行ってしまったの。あなたは聞こえなかったか、忘れたのか、分からないけど、真っ黒焦げになったので食べられません。おなかがすいたでしょう。待ってくださるならもう一度作りますが、待てないなら寿司か何か注文しますが、どうしましょうか」。

 このように言えたなら、ご主人は感動すると思います。そして、「ああ、あの時のことは、そういうことだったのか。テレビに集中していてよく聞こえなかった。ただ出て行くということは分かったけれど。ごめん、しっかり聞いていなくて」と答えるでしょう。男は集中していると、時々、耳元の声までも聞けないことがあります。最初の動機を大切にして、動機と目的を変えずに最後まで貫くとき、その姿は、非常に美しく感じるものではないでしょうか。

 そういう人をぶれない人と言うのです。怒った奥様は、自己の位置を離れて血気、怒気に走り、大切な夫婦の信頼関係をずたずたに壊したのです。夫婦げんかの原因は、本当にささいなことが多く、ちょっとした誤解や行き違いで、お互いを傷つけ合っていることが大半ではないでしょうか。自己の位置を離れる堕落性は、責任の放棄でもあります。この奥さんは、夫に関係なく、自分の考えで肉じゃがを作ろうと思って作り始めたのです。緊急の出来事も、夫に伝わったと思い込んだことも、すべてが独り相撲です。夫は、ただ楽しくテレビを見てくつろいでいただけで、事件に巻き込まれたのです。

最初の善なる動機と目的を、責任を持って貫くことができる行動が取れるとき、心と体が一つになる言行一致の姿を見せられるのではないでしょうか。

 賢く知恵深い人間を目指して頑張りましょう。


posted by ffwpu at 13:28| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする