2015年02月14日

一生を短く見積もる生き方

徳野英治統一教会
 第13代会長 徳野英治

一月四日、東京・渋谷の松濤本部で新年最初の礼拝が行われ、徳野英治会長が「一生を短く見積もる生き方」と題して説教を行いました。徳野会長は、説教に先だって訓読された「一生と永生」という項目のみ言(天一国経典『平和經』)を引用しながら、地上生活の貴さについて説明した後、「一瞬一瞬を大切に生き、天に褒められるような人生を送りましょう」と参加者を激励しました。以下は、その内容を整理したものです。(文責・編集部)

訓読のみ言
(天一国経典『平和經』から)
一生と永生
 皆様は、どれくらい生きると思いますか。「七、八十年は生きるだろう」と思うでしょう。その前には死ぬとは思わないのです。皆様は欲張りです。自分は「八十歳で死ぬ」とか、「百歳になって死ぬだろう」と絶対に信じたとしても、あす死ぬか、きょう死ぬか、分からないのです。御飯を食べながら死ぬか、または今晩、靴を脱いで部屋に入り、寝ている途中で死ぬか、分かるでしょうか。皆様は、「ああ、私は若いので、これから少なくとも四十年、五十年は生きる」という欲心をもっているでしょう。神様に保障されていますか。皆様はできるだけ短く、一年以内に死ぬものと考えてください。この短い期間に準備をすべてしなければなりません。そのような観念をもって、できるだけ短く見積もるほど良いのです。短く見積もるほど、損をしないのです。短い期間に正しく準備すれば、その内容が自分の永遠の生命の家を建てるのです。
 
それでは、その短い期間に神様を愛してみたでしょうか。神様と一つになって、神様と愛し合いたいのに、愛することができないのです。神様は、「愛しなさい!」と言われます。人間の世界で暮らす間、すべての人の中で一人でも神様に紹介するために、二十四時間、精誠を尽くしてみなさいというのです。そのように生きて死ねば、永遠の生命の主体になるのです。
 
皆様は何歳まで生きてから逝きますか。神様の命令によって、すぐに死ぬ場に出ていくとすれば、どうしますか。だとすれば、何かを残さなければなりません。天が自分を褒めることのできる何かを残すべきなのですが、自信はありますか。寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しいというのです。心配しようにも、心配する暇がありません。
 
一生と永遠の問題ですが、その一生を短く見積もるほど、価値があるのです。他の人をどれほど愛するのか、人をどれほど愛する人になるのか、その次に、家庭をどれほど愛したのか、氏族をどれほど愛したのか、このように個人を愛し、家庭を愛し、氏族を愛するのは、全人類を愛するための教材です。彼らを愛するのは、全体を愛するための教材を愛することです。これをすれば、私たちの一生において絶対に損をしないので、この上なく知恵深い考えなのです。
│第四篇6祝福と永生(576〜577ページ)

神氏族的メシヤの使命完遂は祝福家庭に与えられた天命
明けましておめでとうございます。
 
新年最初の説教として、少しユニークなタイトルを付けました。「一生を短く見積もる生き方」というテーマでお話ししたいと思います。このタイトルは、真のお父様のみ言から引用したものです。
昨年九月二十七日、長野県と岐阜県の県境にある御嶽山の噴火によって、登山者五十七人が犠牲になりました。今もなお、六人のかたは行方不明です。折しも、文善進・世界平和統一家庭連合世界本部長がご来日中のことで、私も随行させていただいていました。当日の二十七日に沖縄の大会を終え、福岡に向かうために空港にいるときに、空港のテレビで噴火の報に接しました。
 
私はすぐに、長野県が担当地域に入っている第四地区の南Q卓地区長に電話をして、被害に遭った食口がいないことを確認しました。ところが、福岡に到着して歓迎会が行われている最中に、安井邦彦・第八地区長から連絡があり、「大変なことになりました。愛知県の食口がちょうど御嶽山に登っていて、何人かの犠牲者が出ました」と言うのです。そして、皆様もご存じのように、二人の祝福家庭の男性と二人の祝福二世が犠牲になったことが、その直後に判明したのです。
 
この四人はいずれも、神様を愛し、ために生きる模範的な信仰者の一世と二世でした。なぜ、よりによって噴火するその日、その時刻に登ったのか。しかも、地元ではない、遠い愛知県から―。誰しもこういう素朴な疑問をぬぐうことはできないでしょう。しかしこればかりは、天の父母様(神様)に聞いてみなければ分かりません。人智では量り知ることのできない、深く、そして神秘的な背景があったとしか言いようがないのです。
 
この例に見られるように、私たちの人生においていつ何が起きるか分かりません。明日、霊界に行くかもしれないのです。「だったら、好きなように、面白おかしく生きていったらいいんじゃないの?」と思う人もいるかもしれませんが、これは信仰を持たない人の考え方です。私たちは天の父母様、真の父母様に出会って、地上で何をすべきか、その目的は何かをはっきり教えられています。そうであれば、私たちは、いつ霊界に行っても悔いのないように、地上生活における一瞬一瞬を大切に生きるべきではないでしょうか。
 
真のお母様はいつも、「私には、明日という未来はない。きょうが最後だという覚悟で日々を歩んでいます」とおっしゃいます。お母様は、もう五年も残されていない二〇二〇年までに「摂理の決着をつける」と決意しておられます。「それ以降は地上での命はないかもしれない」というくらいの覚悟とお気持ちでいらっしゃるようにお見受けするのです。
 
また真のお母様は、昨年十月二十六日に清平の清心平和ワールドセンターで行われた「神氏族的メシヤ使命完遂のための世界連合礼拝」で、神氏族的メシヤの使命完遂の重要性についてはっきりと語られました。
 
み言の中で真のお母様は、「かわいそうな私たちの兄弟姉妹がいるというのに、皆さんがたは黙って座って見物だけするのですか?」と問い掛けられ、「七十億人類を天一国の民として案内する……美しい孝子、孝女、忠臣」となって神氏族的メシヤを勝利してほしいと切実に願われたのです。これはお母様を通して伝えられた「天命」であると言えるでしょう。
 
そのみ言を受けて私は目が覚めました。「祝福家庭である以上、誰もが地上で絶対に果たさなければならない使命が、神氏族的メシヤだ。国籍や年齢、祝福双、信仰歴、位置や立場、役職など、一切関係ないのだ」と改めて確認したのです。

「一年以内に死ぬ」と仮定し、一瞬一瞬に精誠を尽くす生き方を
 では、訓読したみ言を確認してみましょう。
 「『私は若いので、これから少なくとも四十年、五十年は生きる』という欲心をもっているでしょう。神様に保障されていますか。皆様はできるだけ短く、一年以内に死ぬものと考えてください。この短い期間に準備をすべてしなければなりません。そのような観念をもって、できるだけ短く見積もるほど良いのです。短く見積もるほど、損をしないのです」
 
皆様、今ここで「自分は一年以内に死ぬ」と仮定してみてください。そうすると、み言にあるように、「寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しいというのです。心配しようにも、心配する暇がありません」人生があと二十年、三十年、あるいは四十年あると思えば、目標が漠然としてしまい、それまでと同じようにのんびりと過ごしてしまうかもしれません。でも、残りの人生が一年であるとすれば、そしてその一年の間にやらなければならないことがはっきりしていれば、死に物狂いになるのではないでしょうか。
 
そうして一年の間、頑張って頑張って、なおかつ、まだ命があったならば、それはもう天に感謝ということになります。「神様、私にもう一年、チャンスを下さるのですか?ありがとうございます」。このような人生観に立ったとしたら、私たちは感謝の気持ちで、一年後もさらに頑張ることができるのではないでしょうか。
 
み言にはまた、「何かを残さなければなりません。天が自分を褒めることのできる何かを残すべきなのですが、自信はありますか」とあります。どうですか?天の父母様が私たちの生涯をごらんになったときに、果たして褒めていただけるような何かがあるでしょうか?それまでの自らの生涯路程を客観的に分析する必要があります。「あ、何もない」となれば大変です。
ところで、「神氏族的メシヤ」は、祝福家庭全員に共通する普遍的な使命です。これは褒められようが褒められまいが、必ず完遂しなければならない宿命です。その神氏族的メシヤとは別に、天に褒められる「プラスα」を持つのが理想的であると言えるでしょう。
 
説教の前に、聖歌隊の皆様が美しい歌声を披露してくださいましたが、これもりっぱな「プラスα」です。「私は神氏族的メシヤのほかに、聖歌隊の一員として、礼拝の復興に貢献しました」。これも天から褒められる大きな実績です。あるいは、それぞれの責任分担において、公職者であれ、一般の職業に就いている人であれ、教会で、職場で尊敬されるような人物になったとしたら、それもまたりっぱな実績です。
 
神氏族的メシヤにプラスして、天から褒められる点を一つでも多く積み上げていく―。これを人生における最大の目標にしていこうではありませんか。
 
み言にはさらに、「一人でも神様に紹介するために、二十四時間、精誠を尽くしてみなさい」とあります。一人でも多くの人を神様に紹介する、あるいは一人でも多くの人に神様を紹介する―。つまり伝道のことです。そのために二十四時間、精誠を尽くすことを天は願っておられるのです。
 
そのような意味で、きょう二〇一五年の最初の礼拝を通して、私が皆様と分かち合いたいのは、「人生に対する考え方の大転換」ということです。一年一年を貴く思い、一か月一か月を貴く思い、さらには一時間一時間、一瞬一瞬を本当に貴く大切に思って、真剣に精誠を尽くし、天のみ旨を成し遂げていく、その決意を共に固めてまいりましょう。そのためにも、人生の捉え方、時に対する考え方を根本的に変えること、すなわち「人生を短く見積もる」生き方に挑戦してみ
ようではありませんか。

二十四時間、侍る生活を貫き、真の父母様と真の親子の関係を結ぼう
 昨年十二月十九日から二十三日、日本の責任者と忠孝家百三十人がアメリカのラスベガスに招待され、私も同行しました。真のお母様は一行を歓迎し、親しくみ言を語ってくださいました。この期間に語られたお母様のみ言の中から、印象に残ったものを三つ紹介したいと思います。
 
第一は、「真の父母を宣布しなさい」というみ言です。十二月十九日、真のお母様はACLC(米国聖職者指導者会議)の大会で、三百三十人のキリスト教聖職者を前に、「あなたの教会の信者たちに真の父母を宣布しなさい」と語られました。
 
私はかつて、アメリカ・ニューヨーク州のUTS(統一神学大学院)で二年間神学を学び、その後、シカゴで一年間、超教派活動を通して牧師たちと交流しました。神学は正に「かじった」程度であり、牧師たちとの交流もわずかな期間ではありましたが、その体験を通して一つ、はっきりと分かったことがあります。それは、「キリスト教聖職者たちが『イエス様は本来、家庭を持つために地上に来られた』ということを理解するのは極めて難しい」ということです。
 
キリスト教の救済観の核心は、「イエス様の十字架の血の代価によって、人々の罪が贖われ、救われる」というものです。つまり、端的に申し上げて、イエス様の十字架がなければ、キリスト教の救いはないと言っても決して過言ではないのです。さらに極端な言い方をすれば、堕落した人間が救われるためには、何が何でもイエス様に十字架についてもらわなければならないということになるのです。
 
このように、イエス様の十字架を贖罪の核心的な根拠として固く信じている牧師たちに、「本来、イエス様は十字架につくために来られたのではない。結婚し、家庭を完成させ、子孫を生み殖やし、その完成した理想家庭を基盤として理想世界を実現するために来られるはずだった」ということを理解してもらうのは、容易ではありません。どんなに真の父母様を尊敬していても、あくまでも「それとこれとは別」なのです。

そんな牧師たちに向かって真のお母様は、「真の父母様と真実を宣布しなさい」、さらに「神氏族的メシヤを勝利しなさい」とまで語られました。これは歴史的な宣布であると言えるでしょう。
 
もちろん原理的に考えれば、メシヤは真の父母であり、アダムとエバの立場を蕩減復帰する立場のおかたですから、イエス様は妻を迎えて、地上で家庭を完成しなければならないのです。ですから、「十字架についてはいけない」ということは明らかです。しかし、このような原理的なメシヤ観というものは、既成キリスト教神学の基本的な枠組みから見た場合には、異端的な見解と捉えられがちなのです。
 
そのような意味で、統一神学は極めて革命的な神学であると言えます。幸か不幸か、日本はキリスト教の基盤が小さいので、私たちは何の抵抗もなく受け入れることができました。キリスト教神学の既成概念に捉われやすいアメリカの聖職者のかたがたには、そう簡単に理解していただけないかもしれませんが、実は統一原理には、キリスト教を凌駕する、限りなく深い内容があるのだということを、もっと誠意を込めて根気強く投入しながら説明していく必要があると思います。
 
第二は、十二月二十日に天和宮で語られた「日本には歴史的な蕩減がある」というみ言です。韓半島は真の父母様を誕生させるために天が長い時を懸けて準備した選民国家の地です。アダム国家であり、宗主国なのです。その韓半島に対して、日本は四十年にわたって植民地支配を行いました。この日本民族が背負っている民族的、国家的な蕩減を決して忘れることなく、私心を捨て、謙遜になって、真の忠孝心、真の信仰の持ち主になることを天は願っておられます。真のお母様はその天のご心情を伝えてくださいました。そして、私たちが勝利することを、懇切に願われたのです。
 
第三は、同じときに語られた「成約時代とは侍義の時代である」というみ言です。「侍義」、すなわち侍る生活について、お母様は以下のように具体的に語ってくださいました。

 「皆さんは日常生活において、朝起きればまず、父母様に『ありがとうございます』と敬拝して(一日を)始めるのです。朝ご飯を食べるときは、最初のさじを持ちながら、『父母様、先にお召し上がりください』と言い、夜、日課を終えて床に就く前には、『父母様、明日のために今晩は休み、また新たに出発します。父母様もゆっくりお休みください』と言うのです。このような生活が、侍る生活です。

そのように二十四時間、皆さんの頭から、胸から、真の父母様が離れてはなりません。そのようにしてこそ、皆さんが子女であると言えるのです」
 
このみ言を伺って改めて、「侍義の生活とは二十四時間、真の父母様を意識し、慕いながら生活することなのだ。そうしてこそ初めて真の親子の関係になれるのだ」と痛感した次第です。

「新しい皮袋」となって新しい天運を受け、二〇一五年を出発しよう!
 最後に、二〇一五年を出発するに当たり、天運を頂く秘訣について確認したいと思います。私たちが天運を頂くためには、天運の中心であるおかたと一つにならなければなりません。では天運の中心とは、どなたでしょうか?
 
言うまでもなく、真の父母様です。真の父母様と一つになり、真の父母様が信仰を指導するために立ててくださった宋龍天・全国祝福家庭総連合会総会長ご夫妻と一つとなり、現場のリーダーと一つとなっていけば、私たちは大いなる天運を頂いて、母の国・日本の使命を果たすことができると確信します。
 
聖書に、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」(マタイ九・17)とあります。新しいぶどう酒とは、メシヤ(真の父母)が持って来られた新しい天一国時代の旺盛な生命力であり、それが正に「新しい天運」です。私たちは、その「新しい天運」を漏らすことなく受けることのできる「新しい皮袋」とならなければならないのです。
 
そのためにも、「一生を短く見積もる」という人生観に転換させ、一瞬一瞬を大切に歩んでいきましょう。本日の礼拝が、そのことを決意する契機となることを心から願います。
 
二〇一五年を、希望とともに新しく出発してまいりましょう!
posted by ffwpu at 14:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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