
杉田佳巳
<2012 秋季 牧会者説教集 P.112〜161>
皆さんもよくご存じかと思いますが、基元節(2013年天暦1月13日)まで、あと187日となりました。基元節は実体的な天一国の始発ですが、あと6カ月しか残っていません。天一国を創建するためには、必ず氏族的メシヤの責任を果たさなければなりません。私たちは、「国が復帰されれば、氏族的メシヤができるのに」とか、「マスコミが変われば……」と、考え易いのですが、実はそれは間違いで、私たちが氏族的メシヤを勝利することによって、その基台の上で、国が復帰されていくのです。
今回、私たちは「新氏族的メシヤ」の出発をしました。氏族的メシヤを、我々はいかに成していくのか。それなくして、天一国の創建はありません。また、天一国創建のためには、母の国としての使命を完遂しなければなりません。それも氏族的メシヤの勝利が必要なのです。
私たちは氏族的メシヤとして何を成すのか。氏族430家庭の復帰も必要ですが、まず、夫・妻・子供の復帰をして、家庭の確立をしなければなりません。
子女は2種類に分けることができます。一つは祝福の子女、もう一つは霊の子女です。霊の子女には信仰二世も含まれます。家庭を完成するには、霊の子女(カインの子女)と祝福の子女(アベルの子女)を愛して一つにして、家庭として勝利しなければなりません。
夫(妻)復帰がまだできていない方は、祝福を目指して真剣に取り組まなければなりません。また、祝福は受けたものの、なかなか夫婦で共に信仰の道を歩めていない方は、共に信仰の道を、氏族的メシヤの勝利に向かって歩めるようにしなければなりません。
子供も同じように復帰しなければなりません。祝福二世だからといって、同じ信仰の道を歩ませ、祝福を受けさせるのは、決して簡単ではありません。信仰二世も同じです。
そして、父母の復帰です。父母の復帰は、氏族的メシヤの出発とも言えます。父母は、堕落したアダムとエバの立場に立っているので、父母を復帰して祝福を受けさせなければなりません。そうすることによって、堕落していない、創造本然のアダムとエバの立場に復帰していくというのが、氏族的メシヤの使命です。そして、父母の前には先祖がいますから、その先祖まで祝福を受けさせて、210代の祝福をしなければなりません。
片親が亡くなっている場合は霊肉界祝福を、両親とも亡くなっている場合は、おじさん・おばさん、兄夫婦、姉夫婦など、自分より年上の夫婦を父母の代わりに立てて祝福を受けさせるよう言われています。父母から私が認められてこそ、氏族に向かうことができます。しかし、父母から認められていないことが多いのではないでしょうか。氏族に行った時、「お前の親はどうなのか」と言われたり、奥さんが親戚に行った時、「あなたの夫はどうなのか」と言われてしまいます。
新氏族的メシヤとして、私の家庭の課題は何なのか、最優先事項は何なのかを明確にしなければなりません。親復帰なのか、夫復帰なのか、それとも子供の復帰なのか、二世の教育なのか。全てを行わなければなりませんが、今一番越えなければならないことをはっきりさせなければなりません。避けて通ることはできません。難しいからといって、見て見ないふりをするとか、顔を背けたりしたら、いつまでたっても前に進みません。蕩減は、闘いを避けていては、成されません。愛する闘いがあります。愛せない者を愛そうとするのですから、必ず闘いがあります。
ご主人復帰ができていない家庭は、ご主人に情が行かないケースが多いのではないでしょうか。「愛せない者は、愛せない」という人がいますが、それは愛せないという自分の感情を肯定していることになります。その愛せないという感情を肯定するのではなく、愛せない自分が間違っていることを悔い改めなければなりません。神様には愛せない者はなく、真の父母様には怨讐はありません。怨讐を愛するのが真の愛ですから、私たちもそうならなければなりません。
まず、私たちは何を勝利しなければならないのかを明確にしなければなりません。それが明確にならなければ、一日の生活が明確になりません。必ずやり遂げなければならないことがあって、必死になっていたなら、一日が非常に充実します。目的意識が必要です。
今の時に、自分にはどんな使命があるのか。私には新氏族的メシヤの使命があります。何から成していかなければならないか。復帰する目標をはっきりさせ、愛していかなければなりません。愛せない私を否定して、愛していかなければなりません。相手が変わるのを願うのではなく、私が愛することができるよう、変わらなければなりません。
どうしたら愛することができるのでしょうか。それは、神様の立場に立つことです。神様には愛せないものはありません。私が神様と一つになれば、愛せないものはありません。父母なる神様の心情を復帰すれば、愛せないものはありません。対象を愛する愛は、神から来るのであり、私には愛の限界があるのですが、神様にはそれがありません。神様と一つになれば、問題ありません。
ですから、精誠を捧げなければなりません。精誠を捧げる目的は、神様から愛を受けるためです。精誠を捧げることによって、神様の関心が私に向き、愛が注がれるので、必ず発展していくようになるのです。
しかし、サタンが存在しているので、神様は一方的に私たちを愛することはできません。神様が私たちを愛そうとするとき、サタンが「この人には、あなた(神)が愛する条件があるのですか」と讒訴してくるのです。そのときに、サタンに示すことのできる精誠があるならば、サタンは「仕方がありません」と引っ込むのです。精誠があれば、神様が福を与えても、サタンは讒訴できないのです。愛したくてたまらない神様なのですが、愛したくても愛することができない神様の事情があるのです。天国は与えたい時に与えることができる所なのです。
大母様が言われるのですが、「神様は大きな福の袋を下げて私たちのところに来られるのですが、夫婦がけんかをしていると、神様は泣きながら福の袋を持って帰って行かれるのです」と。
礼拝に参加することも大きな精誠なのです。私たちの信仰生活は階段を一段ずつ上って行くように、峠を一つずつ越えながら成長していくのです。越えることができないような峠に直面した時、その峠を越えることができる恩恵を、神様は礼拝のときに準備されているのです。ですから、礼拝はただの集会ではありません。み言の解説を聞くとか、お父様の近況を教えてもらうための場ではありません。礼拝は、神様がそこに臨在されて、一人一人に福を与えようとしていらっしゃるのです。その人が越えなければならない壁があるならば、それを越えるための恩恵を与えようと準備されているのです。ところが、来ないことによって、その人は非常に困難な一週間を過ごすようになる、そういうこともあるのです。
訓読もそうです。訓読は、お父様が過去に語られたみ言を読むだけの場ではなく、訓読する時に生きた神様が私に語ってくださる場なのです。だから、精誠が必要なのです。
精誠の中で八大教材・教本訓読の精誠を捧げることが必要です。八大教材・教本は、お父様が人類に対して遺言として残していかれるものです。遺言を受けて、それを実践していくこと、み言のとおりの生活をして、完成実体となることが願われています。
精誠を捧げて、神様の愛を受けるようになれば、人を愛することができるようになるのです。対象を愛せない理由は、愛を受けていないからなのです。対象から愛を受けようとするのは間違いです。「夫が私を愛してくれるのなら、私も夫を愛します」というのは間違いです。神様から愛を受けて、夫を愛するようになっているのであり、私が愛することができないのは、私が神様から愛を受け取っていないからなのです。水が高い所から低い所に流れるように、愛はそのレベルが高い所から低い所に流れるようになっているのです。愛のレベルが低ければ、対象を愛することができません。ですから、私たちは神様から愛を受け取り、愛のレベルを高くしなければなりません。そのために、精誠が必要なのです。
今、基元節を目前にして、何を勝利しなければならないのかを明確にして、時、自分の位置、使命、目的意識をしっかり持たなければなりません。そして、愛することによって勝利しなければなりません。そのために、日々の精誠を積む生活が必要なのです。時は迫ってきていますので、何をすべきか、目標を明確にして、急いで取り組んでいきましょう。