
梶栗玄太郎
<2010 夏季 牧会者説教集 P.31~37>
私は北九州の筑豊炭田に生まれました。筑豊炭田は「炭坑節」とか「青春の門」の映画などで有名です。とてもエネルギッシュな所です。相撲取りの魁皇関、俳優の高倉健は隣の村です。小さいときには、よく集団でけんかをしていました。強かったです。亡くなった野球のオリックスの仰木彬監督は同じ高校の出身です。
筑豊炭田の真ん中を南から北へ遠賀川が貫いています。その流域で生まれた人を「川筋の男」と言いますが、私はその川筋の男です。有名人ややくざなど、いろいろな頭領たちが出た所です。
高校時代に空手をやっていたのですが、柔道の三船久蔵十段にお会いしました。空気投げの演武を見せてくれました。「質問がないか」と言うので、私は手を挙げて「武道とは、何ぞや」と聞きました。偉い人に聞くのが一番早いのです。「武道とは、真理を体得することである」ときっぱり答えました。
次に会ったのがビリー・グラハムで、彼のクルセードに毎回参加しました。何か引かれていったのです。「間もなく偉い人が地上に来る」と言うのです。そのあとに原理を聞いたので、原理がスムーズに入りました。
私は最初、「終末論」から聞きました。三本線を引いて、アブラハム、イエス、再臨主と黒板に書きますが、私は「再臨主が来たんだ」とピンと来ました。この方のことを説明するために、これからの理論があるのだなと思いました。
「復帰原理」は泣きながら聞きました。神様に会えたのです。講義が終わって下北沢の教会で西川勝先生(崔奉春宣教師)とお会いしました。やせこけた人でした。「再臨のキリストって、こんなにやせているのかな」。しかし、やせてはいるが、威厳があるのです。「やっぱり違うな」。
もうその夜から教会に泊まったのですが、祈祷したときに、火の玉がバーンと体に入ってきて、ぐるぐると回って、腸がきれいに整理されて、下からさっと出て行きました。何だろうと思いました。これが火の聖霊ではないか。「わたしのあとから来る人は、……聖霊と火とによってバプテスマをお授けになる」と聖書にあります。火の玉がバッと来て、きれいな体になり、清められた感じがしました。
明くる朝になったら、目が開けて、見るものすべてがきれいに見えました。特に自然がきれいなのです。不思議だなと思いました。
ところが、電車に乗って人間を見たら、霊眼が開けたのでしょう、悪霊がうようよいるのです。全部見えました。人の霊人体が汚いのです。この霊を救うことほど、大きな仕事はないと思いました。私は建設の仕事をしていましたが、それよりも霊を救う仕事のほうが意義が深い。建物はだれでもできるが、これは気がついた者にしかできないから、私はこっちの道を行こう。そうして、建設会社を捨ててしまったのです。
初めて「メシヤ論」を聞いたときのことです。弟子がみな裏切ります。ペテロも裏切って、外に出て行って激しく泣いた、と聞いて、私はわんわん泣きました。男は泣くものではないという思いはありましたが、人間の弱さに「この野郎!」と、悔しくて泣いたのです。「自分がイエスのそばにいたら、絶対に裏切らない」と心で叫んだのです。そうしたら「今がその時だ」という声が聞こえたのです。「時が来た」。これは避けることができません。私は従わざるを得なくなりました。
お父様が最初に来られた時、私は霊眼が開けた状態で、お父様にお会いしました。私は霊界と共にあったから、再臨主に会ったということに確信を持っていました。東京・渋谷の南平台の本部で、たまたまお父様と二人きりで出会いました。にこっと笑って私に近づいてこられ、握手してくださいました。
「君、先生をどう思うか」「先生は再臨主です」「おお、再臨主か」。遠くを見つめながら、何か思いにふけっておられました。そのころはみんなが「大先生」とお呼びしていたのです。一人も再臨主とかメシヤとか言っていないころです。私は霊的に見たので、率直にそうお答えしました。
祝福は偉大なもので、運勢が変わります。私個人だけでなく、相手の家族の基盤と両方の土台の上に立つようになるので、大きくなります。私のほうは筑豊炭田ですから、あまり大きな基台はありません。しかし私の奥さんのほうはすごいのです。お父さんは一高、東大の出身です。お付き合いしているうちに、その価値がわかってきました。
このお父さんは、祝福の前は、5人も家族が統一教会に入ってしまったので、ひとりぼっちになったのです。そして家族が統一教会に入ったために、社長になれず、ずっと専務とか、副の付く肩書きの役職でとどまっていたので、教会のことを恨んでいたのです。千葉の千倉の別荘で、一人寂しく、植物をいじりながら過ごしていたのです。
それでついに怒って、学生時代の後輩に統一教会を調べさせて、つぶそうとしたのです。これが最初の反対運動です。あれが成功していたら、お父さんは反対父母の会の会長になっていたことでしょう。ところが、その後輩が調べて報告するには、「いいことをしているが、悪いことはしていない」とはっきりと言ったのです。それでお父さんも困ってしまったのです。孫を連れていったら、孫に目がなくなり、入教してしまいました。
このお父さんが私に、「この運動をするには、いろいろな人をつかみなさい」と言われ、自分の友達を紹介してくれました。一高、東大ですから、名だたる人たちばかりです。中には、マスコミの情報によって統一教会をうさんくさい団体と思っている方もいました。「うさんくさい団体か、どうか見たことがあるんですか」と聞くと、「いや、ない」。「自分で見て判断すべきではないですか」と言ったら、「それは、そうだ」ということで、ホテルで講義を聞いてもらうことにしました。
その講師はだれがよいか、お父様に相談しました。「相手が付け入るすきがないように理路整然と講義をしたら、頭の良い者は、かえってカーッと怒って聞かないよ。だから、おまえがやれ」。私が「ええ?!」と驚くと、「おまえは講義がバラバラだからいい」と言われたのです。
私の講義は中間がなくて、結論だけをパッパッパッと言ってしまうのですが、これが合っていたのでしょう。その方は、私の講義に結構、感動してくれました。私が泣いた「メシヤ論」で、彼もさめざめと泣くのです。この方は仏教徒なのに、なぜ泣くのだろう、聖書に通じているのだなと感じました。あとで聞いてみたら、彼は合唱隊に入っていて、イエスの路程の歌(受難曲)を何度も何度も原語で歌ったことがあったので、その状況を明確に知っていたのです。それで、ペテロが三度否定して泣くという場面で、彼もさめざめと泣いたのです。
聞いた途端、彼は「これは本物である」と結論をぱっと言いました。「これは応援しなければならない、世間の誤解を解いてあげよう」ということで、いろいろと応援してくれるようになりました。
今、私は自分の一生涯を総反省しているのです。お父様のそばに侍っているという錯覚に陥っていたのです。人間は思想で動いているのです。「自分はこう思う、だからこうする」と。善悪の基準も。位置としては、縦横、東西南北の交点のここに自分はいるのだと確認しながら生きているのです。今で言えばGPSと同じです。東西南北、それはだれが決めたのですか。人間が決めたものでしょう。自分はどこにいるかというのは、「私」が決めているのです。善悪の基準も、「これが絶対だ」と思う、つまり実は「私」が決めているのです。結局は「私」が入っているのです。お父様のそばにいると言いながら、実際は自分を中心として動いていたのです。そう思いませんか。「これがみ旨だ」と思って実践してきたのです。
ところが最近になってお父様は、「神様の軸と人間の軸は必ずしも一致しない」とおっしゃるのです。それはそうでしょう。地球レベルだったら何とかプラス・マイナス、東西南北は一致しますが、宇宙規模になると、どこに東があって、どこに西があるのですか。考えたことがありますか。
また、光はまっすぐ進むものだと思っているでしょう。ところがアインシュタインが相対性理論を発表しました。その理論の実証のために天文学が使われました。皆既日食のときに天文学者が太陽を見たら、太陽の向こう側にある星が見えたのです。それで光は太陽のような大きな質量のある所では曲がるということがわかるのです。光も曲がるのです。
私の思いと行動、実績が神様と関係ないものであれば、宇宙のごみとして消えていくのです。何だ、私はごみか。人生なんてうそばっかりなのです。なぜか。自己中心から出発しているからです。だから結果も自己中心にならざるを得ないのです。
世の中には良心が破壊された人たち、どうしようもない人間が四分の一いるといいます。しかし、その人たちと私はあまり変わりないと思うのです。なぜなら、いつでも裏切る可能性があるからです。ですから、人のことを批判できません。
お父様のそばにいるから近いのではないのです。完全に一つにならなければならないのです。そうなる方法がわからないで、自分はなっていると錯覚して生きてきたのです。
しかしもうこれからはだめです。真の父母様の直下にいる人間にならなければならないのです。それが今の時代に生き残っていく道です。もう一度反省しなければなりません。お父様の近くで接していたけれども、単にそれだけでは意味がありません。お父様の縦横の軸に合うように生きなければならないのです。
その解答が天福函です。天福函を頂いて、八大教材教本を訓読して、実践することによって、人間はだれでも天国に入ることができるという恩恵を与えられるのです。天福函のみ言に従っていれば、だれでも神様と真の父母様にピタッと一致して生きることができるのです。その恩恵を与えられているのです。これがないと完成しないのです。
皆さん、祝福を受けましたね。祝福は重生、復活、永生の三段階です。八大教材教本を訓読して実践することによって初めて、体も聖化していくのです。自分が成長して、そう感じるようになるのです。継続して実践しなければ、一瞬はなるが、次の瞬間には真っ暗になります。持続しなければなりません。お父様は伝統として、訓読会をずっとやっていらっしゃいます。それを相続しなければならないのです。
八大教材教本を中心として生きるのです。それをすれば、だれでも天国に入城できる、成功するのです。これほどの福音がどこにあるでしょうか。だから今、祝福家庭は天福函に帰れというのです。その傘のもとに入れ。これです。そして天福函と共に行けば、統一教会の家庭は最強の家庭ができるのです。しかも完成期の実体基台になることができます。だれが見ても立派な家庭であり、立派な個人であると評価されるようになります。そして統一教会が浮上するころには、その家庭が基盤になるのです。
この道以外にないのです。全員が天福函のもとに走るのです。これが私の、反省したあとの結論です。
(タイトルは編集者がつけました。文責・編集者)