
朴 永奉
<2011 夏季 牧会者説教集 P.150~156>
本日は礼拝生活について考えてみましょう。ヨハネによる福音書を参考にしながら、礼拝についてまとめてみました。
ヨハネによる福音書4章24節に「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」とあるとおり、礼拝は、心を中心として、霊人体を中心として、行わなければなりません。
また同じ章には、イエス様がサマリヤという地域に行って、ある女性と出会う場面が出てきます。そこで、このようなやりとりがありました。
「女はイエスに言った、『主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています』。イエスは女に言われた、『女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救すくいはユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る』」(ヨハネによる福音書4章18〜23節)
今、その時が来て、私たちはこのように礼拝を行っています。今は霊とまこととをもって礼拝をする時代です。
それでは、まず安侍日の由来について考えてみましょう。その起こりである安息日については、創世記に神様は6日間の創造をなして7日目に安息することを記念して定められたとあります。また、出エジプト記20章8節には、安息日を守ることを神様と人間との永遠なる約束としています。その他、旧約、新約聖書のいろいろな箇所に安息日についての記述が出てきます。
それでは安侍日とは何でしょうか? 天暦時代を迎えて、安息日は安侍日となっていますが、その当時、安息日を守らなければ大変な罰がありました。死につつある人を医者が治療してもいけなかったのです。
以前、エルサレムに行ったことがあります。ホテルにエレベーターが2つありました。乗った人がボタンを押して操作するエレベーターと、全自動ですべての階に停まるエレベーターです。安息日には後者のエレベータに乗るようになっていると説明がありました。エレベータを操作することも仕事をすることになるので、安息日にはエレベーターのボタンを押すこともできないのです。イスラエルでは、今もそれほど厳格に安息日を守っています。
当時、そのような社会の中であるにもかかわらず、イエス様は病人を治癒しました。当然ながら、イエス様に対する非難は尋常ではありませんでした。しかし、イエス様は、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」と言われました。安息日は人を愛する実践の日であると宣言されたのです。
出エジプト記20章10〜12節には、「七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」とあります。家畜においても、他国の人でも、この安息日を守るべきであり、父母を敬いなさいというのです。
私たちにおいても、安息日に起源を持つ安侍日を厳格な日として、神様との約束の日として守ることは信仰生活の要であることをよく知ってください。ですから真の父母様は、「キリスト教においても守ってきた、このような聖なる日を私たちも守るべきである」とおっしゃっています。
私たちがここにいるのは神様と出会うためにここにいますが、『礼節と儀式』には、「礼拝は神様に最高の敬意を表す儀式」であるとして、「安息日を聖なるものとして守る目的は、神様が願う国を建て、人類を救うことでなければなりません」とあります。ですから礼拝時間は神様に出会う時です。そして説教に今の摂理の内容が出てくるのは、今が神の国を建てる時であり、そのために必要な内容だからだと理解してください。
このような貴い日を迎えるために、私たちはどのような準備をしなければならないでしょうか? 外的にはお風呂に入って体をきれいに洗い、服も最高にきれいな服を準備して着なければなりません。神様に出会う時間ですから、時間も守らなければなりません。
内的には、何よりも神様を慕う心で来なければなりません。真の父母様を、そして食口を慕う心情で参加すべきです。さらには1週間、愛の実践をなしてきた愛の実績をもって礼拝に参加できるように心掛けてください。それが必要な理由は、礼拝は祭祀でもあるからです。愛の実績を供える場でもあるのです。
次に、礼拝を捧げる場所はどこでしょうか? それは教会です。教会は神様が選んだ神殿です。神様の家です。ここは神様の家です。教会は、神様が「いつも私が共にある」と言われる場所です。祈祷するにしても、家で祈祷するのと教会で祈祷するのでは、その恩恵に差があります。なぜでしょうか? それは教会で祈ることは、天により近い場所で祈ることになるからです。故郷に帰ったときも、まずその地元の教会で祈りを捧げてから、実家に帰るのが望ましいのです。
それでは礼拝に参加する姿勢はどうあるべきでしょうか? 韓国には礼拝に対する二つの表現があります。「私は礼拝を見に行く」と、「私は礼拝を捧げに行く」という二通りの表現です。
前者は、観客として参加する立場の人を指しています。それは僕の立場です。後者は、自分が礼拝を捧げるという立場です。それは主人の立場となります。主人は誰よりも先に来て礼拝を準備する者です。観客(僕)は不足な点をあれこれ指摘して、批評する人です。主人は自分自身が祭物となっている人のことを言います。
説教を受ける立場についても同じです。観客(僕)のような立場で参加すると、逆に恩恵を奪われてしまいます。礼拝における説教は、講演とは違います。講演は個人の考えや研究などを発表する、個人の立場で行うものです。一方、説教は神様の代身として、神様のメッセージを語ることです。たとえ立派な話として成立していなくても、そこには永遠の生命があるのです。そのような姿勢で臨む方には、その人にふさわしい恩恵が与えられます。話が立派だから満足する、逆に拙ないと批評するのは、神様の恩恵を逃すばかりか、サタンに讒訴される条件となってしまいます。
『牧会者の道』には「礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に報告し、贖しょく罪ざいしなければなりません。ですから、礼拝時間は、自由のない時間です」とあります。また、「礼拝を捧げる時間は、怨讐と一撃戦をするより、もっと深刻な場です。考えてごらんなさい。神様を訪ねていき、侍る場所に、礼服を着ないで参席できますか。外見上の礼服ではありません。心情の礼服です」とあります。ここにおいても、礼拝はただ参加する場ではなく、神とサタンの間の深刻な決戦場であるということがよくわかります。さらに、お父様は礼拝に遅れたら、「罪人の中の罪人として悔い改めなければならない」、「神様に捧げるべき時間を盗んだことになる」とまでおっしゃっています。
そして説教後の全体を代表しての祈祷です。ここで留意すべきは、感謝祈祷ではなく奉献祈祷になっていることです。神様と真の父母様に対する感謝と栄光を捧げると同時に、感謝の心を込めて捧げる精誠を奉献するからです。
感謝献金も、礼拝の説教に感動したから捧げるものではなく、1週間の神様の恩恵に対する感謝の意味として捧げるものです。最低限3日間精誠を尽くして準備して捧げるものです。ですから、この教会では感謝献金箱(袋)を回すことはしません。自発的心情で捧げてください。
私の体験ですが、高校生の時、キリスト教の礼拝に誘われて行った際、突然、献金箱が回ってきてびっくりしました。帰りのバス代を全部入れ、4キロ離れた自宅まで歩いて帰った記憶があります。その時は、自発的に捧げたので別に悪い記憶として残っているわけではないのですが、私たちはそのように献金箱を回したりしません。神様は乞食ではないのです。
礼拝の最後にあるのは祝祷ですが、この祝祷権はメシヤの代身として神様に祈ることを指しています。祝祷権はたとえ大統領であってもありません。礼拝を担当する者が、メシヤから祝祷権を委任していただいているのであって、誰にでもあるわけではありません。
ところで信仰者はなぜ礼拝生活が必要なのでしょうか? 信仰と礼拝生活とは、昔の舟にたとえられます。櫓を漕がなければ前進しないような昔の舟を想像してください。櫓を漕がなければ、舟は元の場所にそのままとどまっているように感じますが、それは錯覚です。櫓を漕がない舟は、しばらく経つと本来いた場所から遠く離れた場所に流されていることがわかります。ここで櫓を漕ぐということは、礼拝を捧げることに相当します。礼拝を捧げなければ、知らず知らずのうちに神様から離れているのです。1週間、2週間……1カ月と離れていってしまいます。そして不平不満が出てきます。それを抑える力が出なくなりますし、神様も感じられなくなってきます。
さらに重要なことは、礼拝生活は、日々の生活全体を神様と真の父母様に捧げる、そのような生活をすることです。生活すべてが(神様に栄光を捧げる)礼拝なのです。礼拝時間は、そのような生活全体を捧げることを代表した立場で捧げると考えてください。ですからやむをえない場合でも、報告をしてその時間を守ってください。韓国では、牧会者に直接そのような報告をしています。報告があれば、神様が干渉して守ってくださいます。天運につながります。また、その時間に都合がつかなければ、その日の朝、8時でも9時でも教会にいらして祈ってください。朝早ければ、玄関の前でもいいのです。または夜の礼拝の時間、月曜礼拝の時間に参加してください。
さて、そのような礼拝を捧げる日曜日は、伝道の日でもあります。その伝道の第一歩は自己伝道からです。礼拝を捧げるために教会に来ることが、同時に、自己伝道でもあります。そして家族、氏族を連れて来ることによって伝道が進んでいきます。内部伝道は食口同士が声を掛け合って、お互いに助け合いながら礼拝に来られるようにすることです。これは神様がとても喜ばれることです。そして、そのような関係性を持って外部伝道に向かいましょう!
どこで何をしても、礼拝時間を守ることが信仰生活の基本です。それが神様と共に生活することにつながります。神と共にある方には天運があり、祝福があります。ぜひそのような礼拝生活を守ることを通して、皆様が神様のあふれる恩恵を受けることができますようにと願います。