2014年09月27日

永遠の世界のための地上生活

姜ミングー1.jpg統一教会
姜 ミン求
 <2011 夏季 牧会者説教集 P.125~131>

訓読:『天聖経』p.629〜630

 「『私』という存在は、神様の愛の対象としてつくられました。

 絶対的であり、主体的な神様の対象が、正に自分です。神様の愛の相対が私というものです。神様が自分よりもっと貴く考えるものが、真の愛の概念です。

 神様は、絶対的であり、永遠であられる生命の中心です。そして神様の理想は、もっと永遠なものですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が自分です」

 お彼岸の時季になってきました。世の中でもお墓参りや先祖のことを意識する季節です。霊界を意識して生活をすることは大切なことです。霊界について、何のために存在し、私たちとどう関わりがあるのか、きょうはもう一度考えていきましょう。

 自叙伝『平和を愛する世界人として』に、「人の霊魂は命を失ったからといって埃ほこりのように消えてしまうものではなく、霊魂の世界に行きます」(p.212)、「その日、私は悲しい顔のイエス様をはっきりと見、その声をはっきりと聞きました」(p.62)とあるように、お父様は霊界を実感しながら、あるいは霊界と対話しながら生活をされています。

 私たちは、霊界や先祖、霊と言うと、ともすれば悪因縁の関わりがあり、清平に行かなければならないというイメージが多いのではないでしょうか。神様が霊界を造られた本当の理由を、もう一度理解しなければならないのではないでしょうか。

 『原理講論』には「有形世界で生活した人間が肉身を脱げば、その霊人体は直ちに、無形世界に行って永住するようになる」(p.82〜83)とありますが、ではなぜ、人間は永住(永遠)でなければならないのでしょうか。それは、神様と人間の関係を考えればわかってくるのではないでしょうか。

 訓読した箇所に、「神様は、絶対的であり、永遠であられる生命の中心です。そして神様の理想は、もっと永遠なものですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が自分です」とあるように、神様は愛の対象である私たち人間に永遠性を持たせることが絶対的に必要だったのです。神様は永遠であられるので、子供である人間に永遠性を持たせざるを得ないのです。
 
 皆さん、ここに愛の対象、本当によく愛したものがあったとしましょう。もしそれが突然目の前から消えてなくなったら、どうでしょうか。愛したがゆえに、空しさや悲しさが残らないでしょうか?

 例えば、あなた一人だけが永遠に若く生きていけると考えてみてください。どうでしょうか。

 あなたは愛する夫、あるいは妻を持って、愛する子供たちを生み育て、また愛する孫と共に暮らして幸せな人生を送っているとしましょう。しかし、いつしか時が過ぎ、愛した夫、妻がまず亡くなっていきます。しかし自分だけは若いままです。次には愛した子供たちが死んでいきます。そして次には、また愛した孫たちまでも……。

 どうでしょうか? こんなことを何度繰り返すというのでしょうか。結局、私の心に残るのは、愛し喜んだがゆえの悲しみや空しさではないでしょうか。

 もし神様だけが永遠で、愛の対象である人間が永遠性を持たなかったとしたら、そのようになってしまいます。喜びを求めて創造された神様が、そのようになさるはずはありません。やはり神様の愛の対象は永遠でなければなりませんし、喜びも永遠でなければならないのです。

 神様は、有形世界で人間と共に喜び、霊界においても永遠に喜びの中で暮らしたい、そういう神様ではないでしょうか。だからこそ霊界も創造されたのです。

 自叙伝『平和を愛する世界人として』には「私たちが暮らしている世界より、もっと良い世界に行くと考えれば、地上のものに執着する理由がありません」(p.338)とあります。神様は霊界を永遠の喜びの世界(天国)として創造されたのです。

 しかし、人類始祖アダム・エバの堕落によって地獄が展開されていきました。『天聖経』に、「堕落とは何ですか。堕落したがゆえに、真っ暗な夜中になってしまったという結論が出てくるのです。(まさしく人間が堕落したがゆえに、その世界を創ってしまったのです。本来)天国へ行けるチケットをもらうべきなのに、地獄へ行くチケットをもらったというのです。それを実感するでしょう。天国へ行けるチケットが地獄行きのチケットに変わってしまったのは、堕落のためだというのです」(「人間の生と霊魂の世界」─地獄は神様の愛と関係ない所、p.881〜882)とあるように、実際には、ほとんどの先祖が地獄に行っています。そしてその多くの先祖や怨みを持った霊が、少しでも楽になり(救われ)たいと後孫に働き掛けてきます。

 また、われわれにおいても、本来、三大祝福を完成して創造本性の血統と、その血統を通して神様の情を相続するはずが、堕落の血統として堕落性本性の情をサタンから相続してしまっています。それぞれ家系によって、その情の現れ方は異なっています。ある家はどうも健康に優れない、病気やけがが多い、ある家はどうも離婚や再婚が多く、夫婦仲がどうしてもうまくいかない、そしてある家庭は頑張っても会社がうまくいかない、就職がうまくできずいつも生活に困ってしまう、などなど。
 
 確かに、私たちは、堕落の情、自己正当化や責任転嫁を行う、他人を憎む、いつも諦めてしまうなど、それぞれ悪い癖が多くあります。ほうっておくと、その情に相対基準を合わせて、多くの悪霊(怨霊)が働いて、自身の努力だけではどうにもならないような状況にまで至ってしまいます。

 その結果、夫婦仲が悪くて、努力してもどうしようもなく離婚に至ったり、他人を憎む情から突然暴力を振るってしまったり、自身を守るためにうそをついたり、他人を陥れてしまったりしています。

 幸い、私たち食口は、そのようなことが起きていることの背景について「統一原理」やみ言を通して教えられています。しかし実際の生活では、それに気づかず、闘いきれないで苦労しているのではないでしょうか?

 私たちが祝福を受けて神様の血統に帰っていく(復帰する)ということは、堕落性の情を超えて転換し、神様の情、すなわち創造本性の情に変わっていくことではないでしょうか? 神様に帰っていく道がまさしく復帰の道です。それは、まずサタン分立の道を行き、メシヤに出会って祝福を受けることです。それは正しく復帰の路程を歩むことなのです。

 では、復帰されていくには、どうすればよいでしょうか? それは、もちろん蕩減復帰の道を行くことです。

 「統一原理」では、信仰基台と実体基台を成し、メシヤのための基台を造成することでした。私たちは、その路程を復帰摂理で学んできたのです。ですから真のお父様は、われわれにその道を示し、行かせるために来られたのです。そしてその基台の上に祝福を与えてくださっているのではないでしょうか。

 祝福を与えられるとしても、それは天国行きのパスポート(資格)が与えられるのであって、実際にチケットを手にして、そこに行くのは、われわれ自身がしなければなりません。復帰の道は、信仰基台と実体基台を造成し、メシヤを迎えることによって、神様の心情を体恤し、堕落の情から創造本性の情へと転換されていくのです。

 『天聖経』では、「信仰基台、実体基台を完成してメシヤのための基台を受け継ぎ、メシヤと接ぎ木するという驚くべきことをしなくてはいけないのです」とあります。

 しかし、食口の中には清平へ行って霊的に軽くなり、「復興しました」と言いながら、実践をせず、礼拝に来るのでもなく、2週間ほどしたら、また悩みだし、そして半年くらいして、また清平に行く。「復興しました」と言いながら、そういうことを繰り返している方がいます。

 実は、せっかく清平に行き、霊を分立していただいたのですから、その時こそ信仰生活の実践、礼拝や実践活動をなして、信仰基台と実体基台を立てるべき時なのです。実体基台を立てることが堕落性を脱ぐための蕩減条件なので、実体基台を立てることによって心情の転換をなせば、背後に相対する霊が変わってくるのです。そうすることで背後の霊界が晴れていくのではないでしょうか。

 興進様・大母様も、清平に来たら、帰ってから必ず礼拝に行き、伝道しなさいと言われます。自身の堕落性に相対する霊が減ったときに、実体基台を成す努力が必要なのです。

 今、私たちの信仰生活(人生)を考えてみたとき、今後必ず行く霊界を踏まえて見れば、現在の地上界はほんのわずかな時間ではないでしょうか。永遠の霊界でずっと苦しんで過ごさなければならないことを思うと、この地上で堕落性を脱ぐための蕩減条件(実体基台)を立てることは、自身を分別しなければならないので、本当に大変で苦しいですが、それがこの時だけだと考えれば、そこに向かって行かざるを得ないのではないでしょうか。

 正しく信仰生活とは復帰の生活であり、それは信仰基台、実体基台を成し、メシヤのための基台を成して真の父母様に出会い、かつて離れてしまった神様の元に帰る(血統が変わる)ことではありませんか。そのために、われわれは蕩減復帰の道を歩むのではありませんか。それは神様が願われる道なので、蕩減は神様の愛によって成されるものでしょう。

 私たちは神様と真の父母様に侍りながら(信仰基台)、実践の生活(実体基台)を成さなければならないのです。

 お父様は今でも大会などを成しながら歩み続けておられます。しかし私たちは、「できない」、「難しい」という世界をつくってきました。一体、誰が信仰基台と実体基台を造成するのでしょうか? 私たち自身が成さなければなりません。一体、堕落の姿(今の姿)で霊界に行ったとき、神様の前に、先祖の前に行けるでしょうか?

 皆さんはメシヤ(氏族的メシヤ)です。貴い立場の方です。だから「あきらめる」という言葉はありません。先祖の蕩減は皆さんが背負っていきます。先祖は皆さんを通して救われたいと思っています。

 今、自分の命が10年しかないとしたら、残りの人生を最高に生きるべきではありませんか。それは、神様と真の父母様と他人のために生きることなのです。

 われわれはこの神様に帰る道、霊界の生活までも意識しながら蕩減の道を行くことから決して逃げ出さず、越えて行きましょう。その先に天地人真の父母様、神様がいらっしゃるのです。


posted by ffwpu at 18:13| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。