2014年09月20日

聖書の基軸

大喜多紀明.JPG統一教会
大喜多紀明
 <原理復興会講話集2 P.68~71>

 聖書は、旧約聖書と新約聖書から構成されています。世界を見てみると、キリスト教は言うまでもありませんが、ユダヤ教、さらにイスラームを含めると、聖書を経典とする宗教人口はとても多いのです。聖書が人類に与えてきた影響は多大なものと言えるでしょう。聖書ほど、多くの言語に翻訳された本はありません。同時に、人々の人生に最も大きな影響を与え続けた書物が聖書であると言っても過言ではありません。

 しかし、残念なことに、聖書を通じ、もしくはその解釈の違いによって、数限りない諍いさかいを生んできたことも事実です。換言すれば、「聖書は、人類に、多くの喜びの涙と、多くの悲しみの涙を流させた書である」と言うことができると思います。これほど、解釈の問題で歴史を左右させた書物は、他に例を見ないでしょう。
 新約聖書に記されたイエスの生涯は、自分を殺害しようとする「敵」さえも愛し、十字架上でさえ、その「敵」に対して、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしようとしているのかわらないのです」と語られ、自分の命さえも捧げるほどの、究極的な愛と赦しの歩みでした。このようなイエスの「愛敵精神」は、歴史を超え、多くの人の心を感化し、悔い改めを促し、新しい人生の出発を決断させました。

 ところが現実に目を向けて見ると、同じイエスを信じ、その生き様を手本として生きる決断をした人たち同士でさえも、解釈の違いによる軋轢や葛藤があり、時には、その信仰自体が、他国との戦争を誘発させる原因ともなりました。つまり、神のもとの平和を説くべき宗教が、むしろ、多くの戦争の原因ともなってきたわけです。

 さて、このような聖書を、私たちはどのように扱うべきなのでしょうか? キリスト教をはじめとする多くの宗教・宗派が、大なり小なり、来るべき世界平和実現のために貢献し、尽力してきたという事実はありますが、実際のところ、神と人とが希求する平和世界は、いまだ実現していません。平和世界実現のための基軸の一つとなるべき聖書自体が、何の目的で書かれているのかということを、私たちは、いま一度確認すべきではないでしょうか。聖書は、何を中心として解釈するかによって、大きく異なって見えてしまうのです。

 私たちが聖書を解釈する基軸は、本来、「メシヤ」でなければならないのです。つまり、旧約聖書は、「メシヤ」であるイエスを迎えるという目的を基軸として綴られた書物であるということです。ですから、もしユダヤ教を信仰するイスラエルの民がイエスをメシヤとして受容していたならば、そして、彼らがイエスの提示した真の愛を実践し、イエスと一体となっていたならば、本当は、イエスの生涯路程によって、旧約聖書は完結していたと言うことができるのです。

 しかし、イエスは無残にも磔たく死し、その愛の片鱗だけが聖書に記され、イエス自身はメシヤとしての使命を完結することができなかったのです。旧約聖書はメシヤを迎える基台をどのように造成するかという目的観を中心として書かれていると言えます。

 それでは、新約聖書の軸は何でしょうか? 新約聖書の場合も、旧約聖書と同様に、「メシヤ」を基軸にすると明確に理解することができます。イエスの十字架と復活によって出発したキリスト教は、イエスの再臨によって完結しなければなりません。ですから、新約聖書は、イエスの再臨を基軸として解釈することが、何よりも大切であると言えるでしょう。

 ヨハネの黙示録で預言された「新しいエルサレム」と、そこに来臨する「再臨主」は、多くのクリスチャンにとっての希望です。同時に、再臨したイエスによって新しい生命を与えられ、14万4000の群れに加えられることが、彼らにとっての信仰の結論的内容であるとも言えます。

 しかし、黙示録自体の解釈は、あまりにも多岐に及びます。比喩と象徴にあふれた黙示録の文章は、それを読む人の神学的な立場によって、大きな解釈の差をもたらします。このことは、従来のキリスト教における解釈では、黙示録に書かれた再臨期の様子に対する一致した見解を提示することができていないことを示しています。多くのクリスチャンが待望してきた「再臨主」であり、それが彼らの救いの結論であるにもかかわらず、それらについての曖あい昧まいさは、実は、大きな問題であると言えるでしょう。

 かつて2000年前、イエスはメシヤとして来られましたが、当時のユダヤ人たちはイエスを受け入れることができず、むしろ「悪鬼の頭」、「世を惑わす者」と呼び、ついには殺してしまいました。しかし、あとになって、イエスの生き様を通じ、もしくはイエスに霊的に出会うことを通じて、後世の多くの人たちは、イエスをメシヤとして証言するに至っています。

 文鮮明先生は、再臨のメシヤとして降臨されました。かつてイエスが旧約聖書を完成する立場で来られたのと同様、文鮮明先生は新約聖書の結論であると言えます。ですから、文鮮明先生のたどられた生涯路程によって、聖書全体が完結すると言うことができるのです。

 このように、今日、私たちが読んでいる文鮮明先生の自叙伝の価値は、歴史的なものであると言えるのです。

 文鮮明先生が解明された原理を通じ、今まで誰も解くことができなかった聖書の奥義が解明されました。そして、文鮮明先生が提唱され、主宰される祝福合同結婚式は、今まで多くの人たちが求めてきた救いの究極的な姿であると言えるのです。真の家庭理想は、理想世界の出発点でもあります。このような価値を知るためにも、文鮮明先生が説かれる原理を学ぶ機会を持っていただきたいと思います。


posted by ffwpu at 10:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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