2014年07月12日

私を導くための真の父母の愛の道

盧明燮統一教会
 盧明燮
 <2011 夏季 牧会者説教集 P.68~72>

 真の父母の私たちに対する真の愛とは、どのようなものなのでしょうか。そして、真の愛に従っていく私たちの責任とは何でしょうか。

 堕落した私たちは、サタンにいつも負けてきました。そんな私たちを救い出すため、人類が背負っている苦難、苦しみ、痛みを、真の父母様はすべて歩まれました。私たちが壁のように取り除くことができなかった苦しみ、悲しみ、さまざまな試練……。父母様はすべての闘いに勝利されました。それが父母様の生涯の路程であり、お姿です。

自分の中のサタンを見る(蕩減革命=信仰革命)
 真の父母を迎えるために、そして真の父母に侍り、従って、さらに成長するためには、サタン分立路程を行かなければなりません。私を支配しているサタンを見なければ、それを取り除くことができません。自分自身を見なければ、サタンを分立して創造本然の姿を取り戻すことはできないのです。そして、真の父母の行かれる方向を見るのです。見なければ、ずれてしまいます。真の父母の方向を見ずして、サタンを取り除くことは、あり得ません。そういう意味で、祝福前も、祝福後も、私自身を見つめることが必要です。

 雑草は、きのう取り除いたとしても、きょうになれば、また出てきます。自分を見つめなければ、雑草のように、自分の中のサタンの要素は生じてくるのです。雑草は私より強いので、毎日取り除かなければなりません。毎日取り除く信仰生活をすれば、必ず勝つことができます。お父様も、雑草は必ず出てくるものだとおっしゃいます。なぜなら、私たちは私自身を残した上に接ぎ木したのですから、私が出て来やすいのです。

 ですから、そのままにしておくと、気づかないうちに、接ぎ木の下の自分が残っている部分から、たくさん生えてきて、接ぎ木した芽を覆ってしまうのです。

 イエス様は「あなたはアブラハムの子孫であることを誇りに思うな」と言われました。選民であることを誇りながら、信仰を失った姿を言われたのです。祝福された証しを持ちながらも、サタンに覆い隠されてしまった自分の姿を証していることに気づきません。「私は祝福された」と言うのですが、神様と父母様、先祖の悲しみとなっているのです。

 大母様は「自分を見る時間を持ちなさい」とおっしゃいました。サタンは外にあるのではなく、自分の中から出てくるものです。自分の中にあるサタンが見えなければ、退けることはできません。勝つことはできないのです。

 自分のサタンを自分で見るためには、振り返ってみることです。すなわち、み言の訓読、祈り、礼拝が大切です。自分の顔、姿は見ることはできないので、毎日、鏡を見なければなりません。鏡のように、み言、祈りが毎日必要なのです。

 蕩減革命というのは、自分自身が起こす革命です。自分の蕩減革命であり、相手の蕩減革命ではありません。蕩減革命とは、信仰革命であって、信仰の告白から出発します。告白文を書いて赦されるときに罪が消え去るのであって、書かなければ消えません。

 サタンは見えない所で繁殖しています。通常は見えませんが、家の土台には柱があります。シロアリは見えない所で繁殖するのです。

 天の前に報告できる私たちの信仰であるのか、み言や真の愛に照らし合わせてみなければなりません。

神様、父母様に方向性を合わせる(良心革命)
 真の父母が来られた理由は、堕落した人間を創造本然の人間に復帰し、創造本然の世界に導くためです。創造本然の世界に行くためには、真の父母の方向と合わせて行かなければなりません。目が見えなければ、真の父母の所に行くことができません。私たちの目は真の父母の方向に合わせるためにあるのです。

 本心が生きているということは、神様と授受作用しているということです。神様と授受作用するということは、神様と方向を同じにすることです。

 死んでしまったら、革命は起こせません。冬の間はわかりませんが、枯れ果てたかどうかは、春になればわかります。枯れ果てているとしたら、新芽が出てくる頃になっても、何も変化しません。これは方向性がわからないということです。良心革命を起こすためには、神の方向、父母様の方向に向かわなければなりません。

 良心革命が、私を成長させ、創造本然の姿に生み変え、創造本然の世界に引っ張っていくのです。

 神様、父母様に鞭打たれる時、私の方向性が違っているか確認してみるのです。親が鞭打つのは、子供に過ちを気づかせるためです。

神様を愛する
 「神様を愛する」と「神様に愛されたい」とは、どちらが響きが良いでしょうか。「教会は冷たい。愛してくれない」と言う人がいますが、どうでしょうか。神様を連れてきたいと思うなら、私が誰よりも神様を愛するのです。神様を愛すれば、神様はそこに来ざるを得ないのです。

 天基2年、今、天が私に期待する内容が大きいと考えるのか、重いと考えるのか。期待されていると思えば、やりがいを感じます。自分の思いというのは、180度変わるのです。期待さえ持てない神様にさせてしまうのですか? これは、私に対する神様の愛と考えるのです。

 「神の愛を占領しなさい」とお父様が言われますが、神様の愛を占領する一番の近道は「神様を愛する」ことです。私が「神様を愛する」のです。愛することによって、神様の愛を占領することができます。愛されることでは占領することはできません。

 孫悟空が世界の果てまで行ったと思ったのに、仏様の手の内で遊んでいたにすぎなかったと同じように、私たちは神様の大きな愛の懐の中にいるのです。

み言を受け止める──勝利された父母様と共に越える
 神様と方向性を一つにするために、み言をむやみに扱ってはいけません。一つ一つ受け入れていくのです。そうしないと、私の方向がずれてしまいます。

 み言は、簡単に成し遂げられるものではありませんし、簡単に受け止められないかもしれません。しかし、まず受け止めるところから出発するのです。

 認識することで力を発揮することができます。

 行軍は20キロしかできないと思っていたら、20キロの所でばててしまいますが、40キロできると思えばできるのです。駄目だと認識すれば駄目になりますが、「受け入れます」と決意すれば、神様の方向に向かいます。

 私が勝利するために、真の父母様が先に歩まれ、勝利されているのです。その父母様が共にいてくださいます。駄目だと拒否してしまえば、神様と父母様は共にいることはできません。

 神様は6000年間、ずっと私たちに救いの綱を垂らし続けてこられました。綱をつかまなかった私に、役事しようがありません。神様の救いの綱をつかむ私になりましょう。

 容易な問題ではないでしょう。しかし、どんな壁も先に行かれた父母様が既に越えられたものであって、私たちと共に越えてくださるのです。父母様と共に行けば、壁は突破できます。

 天一国に入るべき姿に生まれ変わる道は、私が受け止めるところから出発できるのです。
posted by ffwpu at 10:42| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする