2014年05月10日

メシヤと共に歩む

石尾.jpg統一教会
石尾豪志
 <2012 夏季 牧会者説教集 P.87~90>

聖書拝読:マルコによる福音書16章
 2000年前に直接メシヤに侍った弟子たちの歩みは、現代に生きる私たちの持つべき信仰姿勢に大きな教訓を残しています。その教訓を生かし、より素晴らしい信仰生活を送るために、マルコによる福音書の16章を読んでみましょう。この章で語られている場面、つまり、イエス様の死後、意気消沈していた弟子たちが集まって食事をしていた最中に、復活したイエス様が現れた時、弟子たちは何を思ったか、について考えてみましょう。

 イエス様の十字架上での死後、弟子たちはどんな思いで過ごしていたでしょうか? 今でこそ、イエス様が神の子であることを世界中の大半の人々が信じていますが、2000年前のユダヤでは、イエス様は罪人の親分として死刑になったのでした。ですから、弟子たちもイエス様の弟子であったことが分かってしまうと殺される危険性さえありました。したがって、イエス様の十字架の直後、弟子たちは「イエス様が生きておられた時に、もっとしっかりと侍っていればよかった」というような強い悔い改めの思いよりは、「イエス様の信徒であったことが分かって殺されないか」と恐れたり、今後の生活を心配したり、そんな個人的な事情ばかりを思っては途方に暮れていたのです。


 そんな時にマグダラのマリヤが、「墓でイエス様の復活について天使から聞いた」と伝えても、弟子たちの心は一向に動かなかったでしょう。また、二人の弟子たちが「田舎へ行く途中にイエス様に会った」と伝えても、信じようとはしなかったでしょう。それよりも、自分がイエス様の弟子であったことが分かって殺されることのほうが心配であり、今後の生活を考えると心が重くなる一方だったはずです。

 そんな時、食卓に、死んだはずのイエス様が現れた際の弟子たちの驚きは、如何ばかりであったでしょうか。まずは、目を疑ったでしょう。そして、イエス様の復活についてマグダラのマリヤをはじめとする弟子たちから聞いていたにもかかわらず、信じていなかった自分を恥じたでしょう。何よりも、自分の命の心配をしたり、今後の生活について頭を痛めたりしていた自分自身を、心底、恥じたに違いありません。キリスト教は、私たちの足りなさをも包み、それでも私たちを赦し、愛されたイエス様の愛、その愛を通して心の醜さを強烈に恥じて、「二度と、このような恥ずべき行為はしない」という強い決意から出発した宗教であることが分かります。

 正直、イエス様の生前には、彼がメシヤであるとの絶対的な確信はなかった弟子たちだったでしょう。もし、絶対的な確信を持っていたならば、命懸けでイエス様の十字架の刑を妨害したでしょう。筆頭弟子のペテロでさえ、イエス様の死の直前に3度も否定した事実が、全てを物語っています。そして、迎えた十字架でのイエス様の死です。

 その後の弟子たちの失望と虚しさは、想像に難くありません。失望と虚しさの中で思うことは、今後の生活への不安と恐怖です。特にイエス様の弟子であったことが分かると殺される危険がありました。イエス様の弟子であった事実を隠しながらユダヤ社会の中で細々と生計を立てていかなければならない今後の生活を思うと、どんどんと落ち込んでいったことでしょう。

 そんな弟子たちが一緒に食事をしても、出てくる会話は、暗い否定的な話ばかりだったはずです。そんな食事の場に、突然、復活したイエス様が現れたのです。弟子たちの驚きは如何ばかりだったでしょうか。復活されたイエス様に会えた喜びはとてつもなく大きかったはずです。しかし、それ以上にイエス様の死後、イエス様や神のことなど微塵も考えずに個人の事情ばかりを心配していた自分の姿が、限りなく恥ずかしかったことでしょう。そして、心底、悔い改めたでしょう。心から悔い改めたのちは、それまでの不安など全て消え去ったのです。

 そんな弟子たちを前にして、イエス様は、最初に弟子たちの不信仰と心のかたくななことをお責めになりました。まず、不信仰の悔い改めをしなければ、新しい出発はできないのです。イエス様の赦しは無条件に受けられるものではありません。深い悔い改めがあって初めて受けられるものです。たとえイエス様は赦していても、その赦しを自分が感じられるようになるには、悔い改めが不可欠なのです。

 その上で、イエス様は弟子たちを赦し、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)と言われました。弟子たちは、自分の不信仰を悔い改める気持ちが深ければ深いほど、復活したイエス様のために「今度こそ、命を捧げて歩もう」とする決意がより強く燃え上がったことでしょう。以前のような確信のない信仰ではなく、イエス様が本当のメシヤであることを確信できたことが、どれほど大きな喜びだったでしょうか。もう、イエス様のために命を差し出すことさえ惜しくはなくなってしまったのです。

 再出発をしたのちの弟子たちの活躍は、素晴らしいものでした。彼らの生きていた当代に、西はスペインから東はインドに至るまで布教しました。また、イエス様の、死んでも神のためにみ旨を成そうとされる、その決意の強さには改めて感動させられます。

 人は、つらいことがあった時には、まず、自分の利益に執着し、自分のことを考えることで手いっぱいになりやすいのです。しかし、そんな時にこそ、メシヤと共にみ旨を成していく気持ちを強く持って、精誠を捧げるべきです。落ち込んでいた使徒たちが、決死の覚悟で布教活動を始めた、その弟子たちの決意と、命を捧げて歩んだ姿こそ、今の私たちに必要です。

 どのようにすれば、弟子たちの決意と実践を私たちも手に入れることができるのでしょうか。

 弟子たちは復活したイエス様と出会い、自分たちの不信仰を恥じ、悔い改めました。恥じる思いが強かった分、心の底から悔い改めることができました。復活したイエス様を見て、無限の喜びを感じながら、イエス様がメシヤであることを確信しました。その確信が、弟子たちをして世界伝道に出て行く命懸けの決意をさせました。

 私たちも、同じプロセスを経て困難に立ち向かっていく、命懸けの決意をすべきではないでしょうか。すなわち、真の父母様との出会いを持ち、自分たちの不信仰を恥じて悔い改め、真の父母様の生き様を見てメシヤであることを確信しながら、共に歩めることに無限の喜びを感じて、命懸けの伝道をなしていくべきです。

 2000年前、弟子たちは、「イエス様の死後」に決意してみ旨を成しました。現代の私たちは2000年前の弟子たちと同じ過ちを犯すことなく、真のお父様がこの地上で命を懸けて歩んでおられる今この時に、本物の信仰を見せましょう。真のお父様が霊界に行かれてからではなく、今この時にこそ、自分たちの足りなさを悔い改め、確信を持って命懸けの決意を成し、力の限りみ旨の道を邁進しましょう。我々の食卓にメシヤが現れても、決して恥ずかしくない自分でいたいものです。
posted by ffwpu at 11:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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