2013年10月25日

神の直接主管圏

米 雅徳.JPG統一教会
米 雅徳
 <2012 秋季 牧会者説教集 P140~144>

訓読:『原理講論』第一章 創造原理 第五節 被造世界の創造過程とその成長期間(二)(3)直接主管圏
 「直接主管圏とは何であり、またこれを創造された目的は、どこにあるのだろうか。神を中心として、ある主体と対象とが合性一体化して四位基台をつくり、神と心情において一体となり、主体の意のままに愛と美を完全に授受して、善の目的を完成することを直接主管という。したがって、直接主管圏とは直ちに完成圏を意味する。このように、直接主管は、あくまでも創造目的を成就するためであるので、これがなくてはならないのである。では、人間に対する神の直接主管とは、具体的にどのようなことをいうのだろうか。神を中心として、アダムとエバが完成して合性一体化し、家庭的な四位基台を造成することによって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接主管という」

 皆様、おはようございます。きょうは、「神の直接主管圏」と題して語りたいと思います。

 2000年前、メシヤとして来られたイエス様は、「悔い改めよ。天国は近づけり」と語られ、来るべき日のために福音のみ言を語っていかれました。聖書に、「さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。そして、彼らの中の一人の学者が、イエスを試そうとして質問した、『先生、律法の中で、どの戒めが一番大切なのですか』。イエスは言われた、『“心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ”。これが一番大切な第一の戒めである。第二もこれと同様である、“自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ”』これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイによる福音書22章34〜39節)とあります。

 人間は堕落し、僕しもべの僕の位置に落ちてしまいました。堕落は一瞬にして落ちますが、復帰は段階的にしか帰れないため、僕の僕、僕、養子、庶子、実子、母、父、神の8段階を行かなければなりませんでした。

 神様は、律法のみ言を下さり、ユダヤ教を通して行義の信仰で堕落人間を僕の僕から僕の段階に復帰してくださいました。そして、イエス様を通して福音のみ言を与えてくださり、信義の信仰で僕の段階から養子の段階に復帰してくださいました。

 神様のみ旨はイエス様を通して成就されるようになっていました。そのために神様はイスラエル民族を選民として準備されました。しかし、そのことが理解できなかった当時のユダヤ教徒たちは、イエス様を十字架につけてしまいました。

 イエス様は不信するユダヤ教徒たちに対して、「私が律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。……わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」(マタイによる福音書5章17〜20節)と語られました。

 イエス様は、律法を成就する、すなわち神のみ旨を成就するために来られました。正にそのみ言が、「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。……それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイによる福音書5章43〜48節)です。

 イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの主なる神を愛せよ」と語られ、また、「もし誰でも私を愛するならば、私の言葉を守るべきであろう。あなた方の聞いている言葉は、私の言葉ではなく、私をつかわされた父の言葉である」(ルカによる福音書14章23節)と語られました。

 堕落論の「自由と堕落と復帰」に「自由が、エバをして、天使を相手とし、堕落線まで引っ張って行ったことは事実であるが、堕落線を越えさせたものはどこまでも自由ではなくして、非原理的は愛の力であったのである。それ故、これとは反対に、堕落人間も自由をもって神に対して相対的な立場に立つことができるのであるから、真理のみ言に従って、神と相対基準を造成し、授受作用するようになれば、その原理的な愛の力によって、創造本性を復帰することができるのである」とあります。

 原理は、人間は、あくまでも、非原理的な愛の力によって堕落したと書いてあります。ゆえに、原理的な愛の力でなければ復帰はできません。み言を学び、信じ、実践し、行義の信仰も、信義の信仰も、侍義の信仰も、原理的な愛(神の愛)の復帰のためにあります。そして、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と語られました。

 ある時、どうしても愛せない兄弟(食口)がいました。あまりにも愛せない思いがあり、ついに「父よ、もしできることでしたらこの杯を私から過ぎ去らせてください」と祈っていました。そして、神様は私の思いに応えてくださいました。ある韓国の先生の集会に参加させていただいたのですが、何も質問をしたわけではないのに、その先生が初期の統一教会の話をされました。

 「教会に食事の時にしか起きてこない兄弟がいました。それを見た他の兄弟が、お父様に、『彼は食事以外何もしません。彼を教会から出してください』と言ってきました。その時、お父様は、『私も彼を教会から追い出すことはできない。彼は必要だから神様が送ったのだ』と答えられたそうです」

 その話を聞いて、お父様も私と同じように悩まれ、神様に聞かれたのだということが分かりました。そして、この兄弟は私のために必要だから神様が送ってくださったのだということが分かり、生きた神様を感じ、本当に嬉しくなりました。それからは、「神様、私には彼を愛する愛はありません。だから、あなたの愛で愛させてください」と祈りました。

 その後、いろいろなことが起こり、間違って彼を不信することがありました。アベルとして、責任者として、兄弟を間違って不信したのです。そのことをただ彼一人に謝るべきか、それとも全体の場で告白すべきか、悩みました。みんなの前で告白すれば、逆に私が不信され、彼らの前に立てなくなるかもしれないとも思いました。そして出した結論は、「朝拝の時に、みんなの前で告白しよう」というものでした。その結果、予想とは逆に、かえって彼らは私を信頼してくれるようになりました。最終的に、自分自身が悔い改めさせられ、彼と一つになることができ、人事異動で離れる時には、彼が一番心に残る兄弟になりました。自分の力だけでは決して越えることはできなかったと思います。

 「み言の目的は実体、実体の目的は心情」とみ言にあります。原理本体論のみ言に従って、神と相対基準を造成して授受作用し、その原理的な愛の力によって創造本性を復帰し、神と心情において一体となり、神を中心とした天一国主人となり、神の直接主管圏に入っていきましょう。

 皆様の家庭に、神様の祝福がありますようにお祈りします。


posted by ffwpu at 00:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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