對馬 豊
<2010 原理復興会講話集1 P.106~110>
きょうは、「なぜ、統一教会なのか」という主題で、少しの時間、お話ししたいと思います。
日本には、古来よりの民族宗教として神道があり、大陸と半島を渡ってきた仏教と儒教との三者が融合して、平和的に共存してきました。お正月には神社にお参りしておみくじを引き、お盆やお彼岸にはお寺さんに行ってお経をあげてもらう。そして年末にはクリスマスケーキを食べる、というのが多くの日本人の一般的姿ですね。ある面、何に対しても寛容な民族性とも言えますし、一本の筋の通った「絶対」といえるものがないとも言えるとも思います。
しかし、本当に日本人は、優秀で、特別な民族だと思います。世界の見る日本人観は、「正直」「勤勉」「礼儀正しい」「やさしい」「清潔」「ルールとマナーを守る」などの言葉で表現されています。例えば、赤信号の時、車が来なくても、青になるまでじっと待っているのは、世界中でドイツ人と日本人だけと言われています。実際、「安心して買い物ができる」、つまりお金をだまさないとか、「落とした財布が戻ってきた」、そして「名前も名乗らずに、当然のことです」と言って行ってしまったとかいう話は、日本人なら珍しいとも思わないでしょう。「見知らぬ人にも道を教えてあげて、案内までしてあげた」という話もありますね。しばらく前までは、女性が一人で夜道を歩いても大丈夫な世界で唯一の国とも言われていました。今でも本当に犯罪の少ない、世界一安全な国ではないでしょうか。
この、日本人の持っている「美徳」は、結論から言えば、天地創造の絶対者なる神様が、この日本民族を世界を生かすために特別な民族として、はぐくんでこられたものと言うことができると思うのです。特に神様は、儒教や仏教を通して「親孝行」の大切さ、「先祖を大切にすること」を徹底して教えてこられました。日本人ならば、「親孝行と先祖供養が大切だ」と言ったときに、反対する人はだれもいないでしょう。まさに民族の細胞の一つ一つの中に「親孝行大切!」「先祖供養大切!」という血が脈々と流れているわけです。これは本当に素晴らしいことだと思います。
さて、本当の親孝行、本当の供養ということを、ここで一緒に考えてみましょう。
まず、本当の親孝行についてです。基本的には三段階があると思います。第一段階は「親に迷惑を掛けない」。つまり、問題を起こさず、可もなく不可もなくと言いましょうか、無難に社会人として生きること、これも孝行のうちかと思います。第二段階は「親の願いに生きて、親が自慢できる子供になること」。普通一般に言う親孝行が、この姿かと思います。では三段階目、それ以上の親孝行とはいったい何かと思われるかもしれませんね。三段階目は「親の願う以上の生き方をする」という親孝行です。この親孝行は、当初は親にとっては親不孝に見えることもあるかもしれません。しかし時間が過ぎ、年月を経るに従って、「ああ、本当に立派な子供であったのだな」と親も気づき、ありがたく思うようになる、そのような世界です。
例えば、お釈迦様のことを考えてみましょう。お釈迦様は釈迦国の王子、つまり世継ぎだったわけですから、出家してしまうということは、王様にとっては大変な衝撃であったでしょう。あるいは「親不孝者」と思わなかったでしょうか? その当時、すでに結婚して、息子までいたわけですから、きっと「親不孝者」と思ったに違いないのです。しかし、結果はどうでしょうか? お釈迦様は悟りを開かれ、悩める凡夫たる大勢の人たちを救う道を開いてくださり、一つの国の枠を超えてたくさんの国々と人々を救い、歴史に大きな功績を残されました。のちにはその価値を妻子や親族らも理解して、お釈迦様の弟子になっていますね。お釈迦様は親孝行だったのでしょうか、親不孝者だったのでしょうか? 大きな眼まなこ、長い目で見た時には、間違いなく「親孝行者」であったのです。
真の親孝行について一緒に考えていただきたく思いまして、もう一つ例題として先の大戦の時のことを少しお話ししたいと思います。
太平洋戦争の末期、日本帝国は無謀なる最後の決戦を期して「特攻隊」を組織しました。貴い命、青春を花のように散らせて逝った、大勢の若者の犠牲があったことを、私たちは忘れてはいけないと思います。親を愛し、兄弟、家族を愛し、自分を生んではぐくんでくれた故郷の山河、この国を愛するがゆえに、守らんがために、赤い命の火花を散らし、太平洋に散って逝ったのです。儒教では、「親より先に死ぬことが一番の親不孝だ」と教えるのですが、彼らは親不孝者だったのでしょうか? そうではありませんね。これ以上ない、最高の親孝行をしようとした特攻隊員たちであったと言えるのではないでしょうか。たとえ国の向かう方向が間違っていて、その犠牲になったのだとしても、彼らの純粋なる親を思い、家族を思い、故郷の山河、ふるさとと国を思ったその思いは、「誠」であったのであり、「愛」の思いそのものでした。
次に真の供養について一緒に考えてみましょう。私たちの信仰の発祥した国は韓国です。その韓国にいわば本山といいますか、根本道場とも言うべき聖地があります。そこを私たちは「清平聖地」と呼んでいます。仁川空港からソウルを越えて、バスで3時間くらい行った美しい山の中、湖のほとりに、修練所をはじめとして祈祷所、体育館、各種の宿泊施設、そこからしばらく行くと、中学校から大学院までの学校があります。その聖地を整備され、その一帯に責任を持っていらっしゃる方が金孝南先生で、女性です。私たちは尊敬の思いを込めて「訓母様」、「大母様」とお呼びしています。
その大母様は、霊界がすべて見える最高の霊能力者です。その先生の教えてくださった内容をベースとして、霊界の実相と真の供養について、膨大なる内容のほんの少しになりますが、お伝えしようと思います。
大母様が霊界に行ってみたところ、天国や楽園、極楽と言われている所は、本当に犠牲になって一生を神様と人類のために生きた、わずか一握りの、いわゆる聖人たちのいる所だったそうです。残念なことに、どんなに良心的に生きた人であっても、その人はせいぜい中間霊界の下層くらいにしか行っていないそうです。そのほかの多くの人々は、自己中心に生き、恨みや憎しみ、未練の思いや負債を持ってあの世に行くので、難しい霊界に行っているというのです。
一般に供養と言えば、お盆やお彼岸、そして命日にお墓参りに行くこと、また、お仏壇のあるお宅では、毎日、水やお供え物を上げて手を合わせることだと思います。しかし、それは例えて言うならば、牢屋に入っている家族(先祖)のために、差し入れを持って行って面会していることに相当するというのです。覚えていてくれたこと、尋ねて来てくれたことはもちろんうれしいのですが、帰って行ったあとにはもっと寂しさが迫ってくるし、また苦しい所で過ごさなければならないというのです。
では正しい先祖供養とは、どうしてあげることでしょうか? 牢屋に面会に行くことではないですね。牢屋から出してあげて、お風呂に入れてあげて垢を落とし、髭ひげも剃って髪も整えて、きれいな服に着替えさせてあげて、そしておいしいごちそうをみんなと一緒に食べられるようにしてあげることですね!
そのようにご先祖様を、今や、解放し、完全に清く美しい、しみ一つない姿に完成してあげることができるようになりました! そのような姿になられた方々を「絶対善霊」と呼びます。普通は、私たちの親が先に霊界に行きますね。もう既に行ってらっしゃる方々にはなおのこと、「どうしたら、それができるのか」が気になることだと思います。どうか焦らないでください。この勉強を続けていかれることを願います。
結論を申し上げます。統一教会は、親孝行と先祖供養を完成する所です! どうか心を開いて、入会して勉強を始められますようにお願いします。素直な心と、皆様ご自身の両の眼と、その両の耳とをもって、真理のみ言葉の恩恵にあずかられますことを心より念願しまして、講演を終了します。ご静聴ありがとうございました。