末原英二
<2012 冬季 牧会者説教集 P.49~51>
聖書拝読:ルカによる福音書23章39〜43節
「十字架にかけられた犯罪人のひとりが、『あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ』と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、『おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない』。そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』。イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」
イエス様の十字架上において、右の強盗と左の強盗が一緒に十字架につけられました。その時、二人は正反対の態度を表明し、その結果、彼らは人類の二つの典型として、人々の心に残る存在となったのです。二人が出会ったのは、最も希望のない姿に見えるイエス様でした。信じたところで何の得にもならない、もうあとのないイエス様。二人が出会ったのは、そんなイエス様でした。
その状況の中で、なぜ、一方の強盗はイエス様を罵倒し、他方はイエス様に希望を託するという違いが生じたのでしょうか? それは間違いなく、二人のそれまでの人生がそうさせたのです。
左の強盗は言いました。「お前はキリスト(救い主)だそうじゃないか。ならば、俺たちを救ってみろ」。彼は、己の罪を認めていません。そしてイエス様の使命を曲解し、逆利用して要求に替える開き直った態度です。最も大切な救いの瞬間に、イエス様と出会えなかったのです。
しかし、イエス様の右のもう一人の強盗は違い、こう言ってたしなめました。「お前は神を恐れないのか。私たちは自分のしたことの報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。だが、この方は何も悪いことをしたのではない」。
この言葉から察することができるのは、彼が神を恐れる者であったこと、罪を悔い、報いを甘受しようとする姿勢を持っていたことです。だからこそ彼は、かくも絶望的な状況の中で、同じ境遇の男にさえ希望を託することができたのです。
限界状況の中で人がどのような立場に立つか。まさにそれは、一人一人の日常的な生活の積み重ねの中に隠されているのです。
私たちは、犯した罪に対して、堕落性のゆえに、責任転嫁をしてしまいがちです。
左の強盗は、自分の犯した罪に対して、どこまでも罪を認めません。償いを求めることもなく、悔い改めるどころか、自分が強盗をし、罪を犯したのは、自分が悪いのではなく、この世の中が悪いのであって、自分は罪を犯さざるを得ない立場に追い込まれてしまったのだと。結局、自己を否定することのない姿であったのです。
ビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』という小説の中に、主人公のジャン・バルジャンが貧しさと飢えのため、1本のパンを盗んでしまい、捕らわれてしまう内容があります。冷酷な刑務所の看守長に、どんなに許しを乞うても許しを与えらません。脱獄を何度も試みた結果、監獄生活はついに19年にも及んだのです。
監獄生活を終えても行く場のないジャン・バルジャンでしたが、心温かく迎え、ねぎらってくれ、一晩泊めてくれた司教との出会いが与えられます。しかし、人の心の温かさを知らなかったジャンは、司教の親切を仇あだにしてしまいます。明け方になると、銀の食器を盗み出して逃亡してしまうのでした。途中、警官に見つけられ、ジャンは司教の宅まで連れられてきます。ところが、司教は前科者のジャンをかばって、これは私があげたものであると言い、さらに銀の燭台までもあげるのでした。初めて知った神の心にジャンは呆然とし、泣き崩れるのです。
しかし、物語は、本当の人間の罪を知らされる場面へと続くのです。一人の少年が銀貨のコインを頭上高く投げ上げて遊んでいましたが、コインを受け損ない、コロコロとジャンの足元まで転げてきたのです。無意識のうちにジャンはその銀貨を足で踏みつけ、少年が「返してくれよ!」と泣き叫んでも、一切耳を貸さず、無理やり奪ってしまうのです。少年は奪われた銀貨を後に、どこかへ行ってしまいます。
その時、ジャンの心に激しい悔悟の念が湧き起こったのです。貧しさゆえにパンを盗み、どんなに許しを乞うても許されない心の冷たさをいやというほど知らされたジャンは、いつしか、「このような自分になったのは世の中が悪いのだ! 盗みたくて盗んだのではないのだ!」と心に言い聞かせていました。しかし、実は自分の心の中に、弱い者を虐げ、自分さえ良ければいいという邪悪なる心の罪を初めて見たのです。ジャンは、世間の冷たい人々の心と、自分自身の心も同じであったことに衝撃を受けたのです。
右の強盗は罪を自覚していました。神の子と言われたイエス様の姿は、何の権威もなく、頭には茨の冠を被せられ、血のしたたり落ちる姿に、神の子としての威厳も力も感じさせることない、惨めな男の姿しかないのです。しかし、イエス様を嘲り、殺そうとする人々に対して、イエス様は、神様にとりなして祈りを捧げていきます。「彼らを赦ゆるしたまえ、彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と。右の強盗は、十字架刑の苦しみと悲しみの絶頂の中で、イエス様の言葉を通して、神の子イエス、人類の救い主メシヤであると確信したに違いがありません。
私たちは、再臨のメシヤ、真の父母様と生きて出会い、七転八起の姿を何度も見て、知らされました。私たちは、堕落の血統の中に生まれ、罪人としての人生しか許されなかったにもかかわらず、神の血統へと転換され、罪が贖われるという、とてつもない天の恩恵の中に生かされている立場であることを明確に知らなければなりません。
同時に、新氏族的メシヤとして出発する私たちは、弟子たちが、イエス様が復活し、50日目の五旬節の聖霊降臨の奇跡を実感したように、全世界へとみ言を伝えに行かなければならないのです。
そして、人類の真の父母、救世主、メシヤ、平和の王であられる、真の父母様を証し、み言を伝えて、人類を罪から救う道を歩んでいきましょう!



