2013年04月06日

生命の木と悔い改めと感謝

刑部 徹.jpg統一教会
 刑部 徹
 <2012 秋季 牧会者説教集 P.145~153>

訓読:『訓教経』(下)「真なる人と罪」
 「皆さんに罪があるなら、何が罪でしょうか。神様の息子になれなかったことが罪です。神様の娘になれなかったことが罪です。私たちは罪人です。誰もが罪人です。それを知らなければなりません。神様が願う兄さんになれず、兄弟になれなかったのが罪です。

 その次には、何が罪でしょうか。神様が願う新郎新婦になれなかったことが罪です。ここには結婚して息子、娘を生んで生活する人々がたくさんいますが、神様が願う新郎新婦にはなれなかったのです。それが罪です。神様が願われるおじさんになれず、神様が願うおじいさんになれず、神様が願う王の道理を守れなかったことが罪です。ですから、どれほどの罪人かをよく知らなければなりません。

 本来、誰彼を問わず、天上王国世界において、皇太子として生まれることのできる権威をもったことが人間の特権です。それが人間の価値です。王女の権威をもって生まれるのが、本来の人間の権威でした。ところが、その権威が失墜したので、父母の前に不孝な人はその権威を喪失したのと同様に、喪失した比例に従って、不孝の烙印が押されるのです。ですから、私たちが神様の前にどれほど不孝をし、どれほど不忠をし、どれほど許されない罪人かということを、皆さんは知らなければなりません。

 このような観点から見るとき、皆さんがいつ本当に神様の愛を受ける息子になるために、娘になるために、生命を懸けて一度努力をしてみたでしょうか。何もないのです。これを見るときに、残るのは悔い改めしかないのです。悔い改めなければなりません。

 兄弟同士いるのに、自分を中心としてどうこう言う者は罪人です。罪人がほかにいるのではありません。本然の男性の行く道、あるいは本然の女性の行く道と、神様が願う善のみ旨を中心として見るとき、そこに不合格な各段階、分野に置かれたそれ自体が罪だということを、認識しなければなりません。

 女性としての行くべき道を女性が失ったので、天上天下に許されない罪人だということを自覚しなければなりません。それゆえ、その罪を許されるためには、夜も昼も、10年の歳月を経ても駄目なら、30年の歳月をかけて悔い改めるという気持ちをもたなければならないというのです。なぜでしょうか。三時代を経てくるからです。蘇生、長成、完成を反対に上がらなければならないので、三時代以上、苦労の道を行かなければならないのです」



 私たちの貴く、そして奇跡の親である「真の父母様」のことをより深く知るために、この時間を持ってまいりたいと思います。

 真の父母様を理解しようとするならば、まず「生命の木」を理解しなければなりません。それでは「生命の木」とは何でしょうか。聖書の冒頭には、神様が最初にエデンの園において「生命の木」と「善悪を知る木」を生えさせられたとあります。そして、その「生命の木」をイスラエル民族はずっと求めてきたのでした。


 箴言13章12節には「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、生命の木を得たようだ」とあります。私たちも望みがかなわないときは悩み苦しみます。またその望みがかなったときはどれほど嬉しいでしょうか。イスラエル民族が望みの対象としたのが正に「生命の木」でした。

 そしてクリスチャンたちも同様でした。ヨハネの黙示録22章14節に生命の木と悔い改めと感謝は「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」とあります。都(天国)に入るために、「生命の木」にあずかるのは特権であるというのです。

 では、その「生命の木」とは何でしょうか。それは完成したアダムを意味しています。人間始祖が堕落したことにより、人類はずっと長い間「生命の木」を求めてきました。つまり「生命の木」に帰っていくことが、私たちが「生きる」ということになります。聖書はよくぞ「生命の木」と表現したものです。「黄金の木」「金のなる木」ではなく「生命の木」と表示されているのは、正にそのとおりです。「真のお父様」は、その「生命の木」として来られたお方です。なぜそう断言できるのでしょうか。そのことについて考えてみたいと思います。

 人間が「生命の木」に至ることができなかった理由は、堕落したからです。その「生命の木」にあずかるためには、自分の着物を洗わなければなりません。「着物を洗う」とは、罪に伴って生じた堕落性を脱ぐことです。そのためには自分の罪や堕落性をよく知らなければなりません。

 私も昔、一生懸命に自分の罪と闘いました。自分の中のサタンを何とか克服しなければいけないと思いました。なぜかと言えば、私がみ言を聞いて一番感動したところが『原理講論』にある「緒論」だったからです。「緒論」には、堕落した人間がどのようにして救われていくかが記されています。み言を聞いた当初、「堕落性が服を来て歩いているのが自分だ!」と感じたので、そのことが強く残ったわけです。

 3日間の修練会でしたが、そこでとても感動しました。最後に、一番大事なことは何だろうかと考えて整理しました。その時、「お前はサタンだ!」「お前はルーシェルそのものだ!」という思いが湧いてきたのです。確かに過去の自分を振り返ると、邪よこしまな動機がいつもどこかにありました。その時、正に蛇のような自分であることを感じ、苦しくて、つらくて、存在する価値もないという思いでいっぱいになりました。

 「どうしたら、こんな自分が生まれ変わることができるのだろうか」と、煩はん悶もんしていた時に閃ひらめいたのが「緒論」だったのです。「こんな私もサタン分立路程を歩んで、メシヤと出会って新生(重生)できるんだ! そして、神様の元に帰って行けるんだ!」。そこに蛇のような私を見捨てず導いてくださった神様の愛をはっきりと感じ、神様と霊的に出会った思いになりました。

 それから20年、いかにサタン分立路程でサタンに勝つかということに思いを費やしてきたのですが、20年の闘いの末に出したのが「敗北宣言」でした。生涯かかってもサタンに勝てないという思いでした。少なくとも私の代では無理だ。子供の代でも難しいのではないか……。そうして、教会から遠ざかっていた時期もありました。

 しかし、それなのになぜ、私がこの場に立って皆さんに説教をしているのでしょうか。それはサタンに勝つ方法を知ったからです。皆さんは知りたいですか、知りたくないですか?

 私は神様から生まれてきたのか、それともサタンから生まれてきたものか、これが非常に重要な問題です。間違いなく、私たちは本来、神様から生まれてくるはずでしたが、アダムとエバの堕落によって、サタンから生まれてきてしまいました。では、サタンから生まれてきた者がサタンに打ち勝つことができるでしょうか。できません。たとえ「み言」を知って、それをもってサタンと百年、万年、格闘しても、勝つことはできません。サタンから生まれてきた者がサタンに勝つことは絶対にできないのです。

 ではサタンに勝つにはどうするのか。その方法があるでしょうか。それはただ一つしかありません。サタンに打ち勝った人と一つになることです。罪の思いが湧いたときに、自分で克服しようとしてもできないのですが、真の父母様のことを思うと、真の父母様に思いを馳せると、少なくとも、私の中にはサタン的な思いが入ってこないことに気付きました。真の父母様のことを思うと、私の思いの中には神様と真の父母様しかなく、サタン的思いが一切入ってこないのです。

 過去にも多くの人たちがサタンと闘い、自分の罪を克服しようと、自分の力で闘いを挑んできたのだろうと思います。しかし、そのように正面切ってサタンと闘ってきた人は、全員敗北してきただろうと察します。その結果、信仰を放棄したり、曖昧にしたり、中途半端にしてきたのだろうと思います。

 私たちは、自分の力で、努力によっては罪に打ち勝つことはできません。そのことをよく知らなければなりません。私たちがサタンに打ち勝つ唯一の方法は、罪(サタン)に打ち勝った方と一つになることなのです。それこそが罪を克服し、サタンに打ち勝つ唯一の道だということを、はっきりと悟らなければいけません。ですから「真の父母様は、私たちを本当に生かす生命の木だ!」と叫びたいのです。

 真の父母様がどれほど貴いお方でしょうか。「あなたの両親と真の父母様はどちらが大事か。あなたの兄弟と真の父母様はどちらが大切か」と聞かれたら、どう答えますか。さらに、「あなたの子供と真の父母様どちらが大切ですか」と聞かれたら、どうですか。私は、それは真の父母様であると思いました。

 しかし、決して自分の親、兄弟、子供たちが重要ではないと言っているのではありません。真の父母様が私たちに願われることは、「真の家庭」を築くことですから、親、兄弟、子供を軽んずることはあり得ないことです。でも、真の父母様という方の価値を考えるとき、親とも、兄弟とも、子供とも代えられないほどの価値があるということです。なぜなら、真の父母様がいなければ、親も、兄弟も、子供も、永遠に罪に囚われた身のままだからです。

 真の父母様は「生命の木」なのです。人類が待望してきた、罪の虜となった私たちを解放することができる「生命の木」なのです。

 真の父母様の価値をさらに理解するためには、私たちの罪がどれほど大きいものなのかを悟らなければなければなりません。そうでなければ、本当の意味では分かりません。

 私たちの罪はどれほどのものでしょうか。お父様は2001年に天一国の天法を宣布されました。その第一条が血統問題です。純潔を守らなければならないということです。第二条は心情蹂躪(じゅうりん)をしてはいけないということです。ここで注意しなければならないのは、このことを自分中心に捉えないようにしなければならないということです。「私は心情を蹂躪された!」というのではなく、「神様の心情」「真の父母様の心情」を蹂躙していないかということが何よりも重要なことであり、人の心情を蹂躙していないかというのです。第三条は公金問題です。全ては本来神様のものですので、私たちの得たものも、本来、全て神様のものなのです。全てが神様のものですから公的なのですが、象徴的に十一条を捧げるのです。ですから十一条は公金なのです。事情があるからしないというのは、厳密には公金問題になります。

 「私は血統問題も、心情蹂躪も公金問題も犯していません」と言う方がいらっしゃるかもしれません。しかし、お父様は「神様の息子になれなかったこと、娘になれなかったことが罪です」と語られています。「神様の願う息子、娘になれなかったことが罪なのです」、さらには「神様の願う新郎新婦になれなかったことが罪です」とおっしゃっています。

 では、そのことが罪であると自覚している人がどれほどいるでしょうか。神様の息子、娘の心に不平不満がありますか。神様の兄弟姉妹の間に、そして神様の夫婦の間に不平不満があるでしょうか。確かに、人間ならば間違うこともあるでしょう。しかし、兄弟姉妹を裁いたり、夫婦が裁き合うということは、本来の関係ではありません。夫のために、あるいは妻の幸せのために、自らが喜んで苦労を負っていくのが、本来の私たちの立場ではないでしょうか。

 また、「どうして、このような人と結婚したのか」、「夫にもっとこうあってほしい」とか、「妻はこのようにあるべきだ」と不平不満を漏らしているとすれば、私たちは罪だらけの姿を神様の前に晒していることになるのではないでしょうか。また、み言をもって人を裁いてはいませんか。「あの人は原理的におかしい」などと人を裁くのは、み言が分かっていながら、サタンの願いに生きている人です。もしそのように罪だらけの自分の姿に気付いていないとすれば、決して真の父母様の価値を知ることはできません。

 今、私たちは「生命の木」にあずかる特権を得ています。いやそれ以上の恵みの中にいる私たちであることを、本当の意味で知っていただきたいと思います。ぜひ「生命の源泉」「魂の源泉」「愛の源泉」としての真の父母様の価値をより深く知るように、共に求めていきましょう。

 罪を悔い改め、真の父母様と一体化していくことが、サタンに打ち勝てる唯一の道です。

 ところで、その罪にまつわる「蕩減」という言葉の意味について、ここで少し考えてみたいと思います。まず原理で語られている「蕩減」とは、決して罪に対する「償い」を指しているのではないことを理解してください。日本には蕩減という言葉がないので、本来の意味を理解することは難しいと思います。

 韓国には「蕩減」という言葉が出てくる大河ドラマがあります。「商道」(サンド)というドラマです。そこには、主人の教えをよく守る、よくできた弟子が出てきます。「商人は人を育てることが重要である」という教えをよく守り、実践しました。もう一人の弟子は、頭の回転が速く能力があり、権力を利用して金持ちになり、前者のよくできた弟子を迫害し、利用しようとする弟子でした。最終的には、主人の教えを守り、人を育てることにより人望を得て、実直に積み上げていく道を歩んだ弟子が王様から友と言われるほどに成功し、一方、我欲に執着した弟子は自殺することになります。

 やがて、その成功した弟子の商人は、納める税金が国税の半分にもなるほどの大金持ちになりました。しかし、王の信頼も厚く、何の不自由もない立場にまでなったのですが、そのような立場にとても不安を感じるようになったのです。そこで、以前に「苦しくなった時には開いてみなさい」とお坊さんから頂いた贈り物を開いてみました。開いてみると、そこには「腹八分目」という意味の文字が書いてありました。商人は考えた末に、その言葉に従って、自分が得た全てを放棄し、その地位から降りてしまいました。それどころか、今まで多くの人々に貸していたお金の帳簿を全て燃やしてしまい、借金を帳消しにしてあげたのです。その上、商売をする者には、商売を始める資金まで分け与えたのです。そのドラマでは、そのことを「蕩減」と表現していました。

 ここでその借金を罪と置き換えてみたらどうでしょうか。「真の父母様」は、私たちのすべての借金(罪)を帳消しにしてくださいました。のみならず、祝福を与え、サタンから生まれてきた私たちを、神様の「息子」「娘」だとして、神様の愛と生命と血統を与えてくださいました。ただ一方的に、千年かかっても償うことのできない罪を赦してくださるのみならず、神様の愛と生命と血統までも与え、神様の息子、娘として祝福してくださったのです。何と計り知れない愛と恩恵でしょうか! その恩恵の偉大さを悟り、私たちは千年、万年、語り継いでいかなければいけません。

 そうすれば、私たちは自然に、神様と真の父母様のみ前に、悔い改めと感謝の思いが常に心の中にあるようになることでしょう。6000年の罪にまみれた私たちを、罪から解き放ってくださったのが真の父母様です。「私の生命の木」としての真の父母様を崇め、計り知れない愛と恩恵を実感し、感謝と悔い改めを天に捧げていきましょう!
posted by ffwpu at 10:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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