2013年03月16日

夢を共有しよう

11・西・藤川憲治.jpg統一教会
藤川憲治
<2012 秋季 牧会者説教集 P.135~139>

聖書拝読:マタイによる福音書6章25〜33節

「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」

 人生において夢を共有することは、とても大切なことです。夢を共有することは、同じ方向を見つめ合うことであり、また一体化や絆きずな、調和、感謝の思いが生じるからです。


 今、夏の高校野球大会が開かれています。それぞれのチームが全国優勝という夢に向かって熱戦を繰り広げています。ところで2007年夏の大会では佐賀北高校が優勝し、「がばい旋風」と呼ばれました。

 この佐賀北高校は普通科の進学校で、決して野球エリートを集めた学校ではありません。しかも決勝戦での先発6人は、身長が1メートル60センチ台でした。それにもかかわらず優勝したのです。

 このチームには、いくつかの特徴がありました。その一つは、練習が禁止されている試験期間中は「勉強会」を開いて互いに教え合い、連帯感を深めていたということです。二つ目は、部室に「ピンチの後にチャンス有り」というスローガンを貼って、困難な状況が訪れても夢と希望を失わず、乗り越えようとする気持ちをみんなが持っていたということです。

 そしてもう一つは、決して相手を否定せず、良いところは素直に褒めるということです。例えば、相手チームがヒットを打つと「ナイスバッティング!」と言い、二塁打を打つと「素晴らしいですね」と言い、三振を取られた時には相手ピッチャーに「ナイスピッチング!」と言うそうです。

 だから佐賀北に負けたチームは、悔しい思いをしないで、佐賀北のファンになってしまうそうです。そして負けたあとは、どのチームも佐賀北に優勝してもらいたくなるそうです。

 入試合格という同じ目標に向かっていこうとする仲の良いクラスと、いじめのあるクラスとでは、入試の合格率が全く違うそうです。高い合格率を上げるクラスでたまにゲームや漫画を持ってくる生徒がいると、「やめようぜ。今は入試に向かっているから、みんなで頑張ろう。ゲームは俺もやりたいから、終わってからやろう」。そう言って、勉強をする雰囲気を大切にしているそうです。

 渡り鳥の中に雁(がん)という鳥がいます。いつもV字編隊で飛行します。横から見ると、後ろで飛んでいる鳥は少し高いところを飛んでいて、立体的になっています。それは前を飛ぶ雁が羽ばたくと上昇気流が起
きて、後方の雁は少ないエネルギーで飛べるからです。そして先頭の雁が疲れてくると後ろに回って、他の雁が前を埋めるようにしています。こうして飛ぶことで、単独で飛ぶのと比べて71パーセントの力で飛ぶことができるそうです。

 このように助け合いながら、同じ方向や目的を見つめ合うことは、とても大切なことです。目標や目的を忘れてしまって現実に縛られると、不平不満が出やすくなり、力も湧かなくなります。また夢を忘れてただお互いに見つめ合うと、相手の長所が見えなくなり、欠点だけを見てしまったり、要求することもしばしばです。

 このことは出エジプト記のイスラエル民族の様子からも理解できます。エジプトを出発する時は、民はみなカナンに帰るという同じ方向を見つめ、夢を共有していました。しかし現実の厳しさにさらされた時、民の心にはカナンに帰るという動機や目的が薄れ、方向が定まらなくなり、不平不満でいっぱいになってしまいました。結局、不信仰した外的イスラエルは荒野で朽ち果て、内的イスラエルだけがカナンに入るという結果になりました。

 新約聖書の福音書や使徒行伝には、しばしばペテロが登場します。彼はイエスの三弟子の中でも第一弟子の立場にあり、今日では聖人として位置づけられています。バチカンにあるセントピーター寺院(サンピエトロ寺院)は彼の名前を由来としています。

 しかしながら彼は、イエスがゲツセマネにおいて悲痛な祈りを捧げている時に、他の弟子と共に眠ってしまい、イエスの裁判の時には三度も知らないと否定してしまいました。迫害が激しくなることで、ペテロはイエスが抱いていた夢や目標から心情的に離れてしまったのでした。

 ペテロの生涯は、使徒行伝では12章まで登場しています。彼は最後は逆さ十字架につけられたと言われていますが、その内容はペテロ外典に詳しく書かれています。それによると、彼が迫害の激化したローマから逃げようとすると、道の向こうから光が近づいて来ます。それは師であるイエスだったのでした。驚いたペテロはイエスに「主よ、どこへ行かれるのですか(ドミネ・クオ・バディス)」と問いかけます。するとイエスは、「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えたのでした。

 ペテロはそれを聞いて、イエスの心から離れていたことを悔い改め、殉教を覚悟してローマに戻ったのでした。そして使徒たちを激励しますが、やがて捕らえられ、「主が十字架に付いたのならば、主を裏切った私には逆さ十字架を」と言って、逆さ十字架に付いたのでした。ペテロの心の中に、イエスが抱いていた夢や目標が蘇った時、勇気と力が再び湧き上がってきたのでした。

 今私たちは、神様や真の父母様の夢を共有しているでしょうか。そして同じものを見つめて、そこに向かって歩んでいるでしょうか。もう一度私たちは、自分の心を深く省みて悔い改めなければなりません。

 私たちは、自分の幸せを願ってこの道を出発したのではありませんでした。しかし現実が大きくなり、いつの間にか、神様と真の父母様の夢が薄らいでしまっているように感じます。基元節を間近に控えた今、私たちは改めて、神様と真の父母様の夢を共有して共に歩んでいきましょう。


posted by ffwpu at 18:12| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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