2013年02月16日

み旨を中心に一つになる時

大石進.jpg統一教会
 大石 進
 <2012 秋季 牧会者説教集 P.102~106>

訓読:『イエス様の生涯と愛』第六章 イエス様の復活と神様の願い 一体となった百二十人門徒p.276〜278より

 「120人の門徒がマルコの屋上の間に集まり、イエス様が生前『聖霊を送ってあげよう』と言われたその約束を心に信じ、一つになって祈ることがなかったら、今日キリスト教は、世界的な宗教にはなれなかったことでしょう。

 そのとき身を伏して祈った120人の門徒には、恐れの心がありませんでした。自分の威信や体面、そして家庭もすべて忘れ、ひたすら主の約束がある時、ある場所に現れることを信じて120人の門徒が一つとなって祈ったとき、4000年間、天地の間で遮っていた死亡の圏を打ち破って、聖霊が地上に臨むようになったのです。

 これは偶然なことではありませんでした。このことによって人間を再び出産してあげることのできる新しい道が切り開かれたのですが、この一つの事実は誰によって起きたのでしょうか。これは120人の門徒が終始一貫した心、終始一貰した誠意、終始一貫した供え物の精神によって、父のみ旨、神様を見つめた切実なその心によって起きたのです。このように地に対して摂理できなかった聖霊の役事が、初めて新しい歴史的な出発をし得たことを知らなければなりません。

 120人の門徒は天地が震動し、炎のような舌が分かれる聖霊の役事を体恤するようになるとき、天に向かう切実な心に徹し、いかなる怨讐に対したとしても死を覚悟して行こうという心をもつようになったのです。ここに天によって力がさらに加えられると、その力はいかな
る者が切ろうとしても切ることができなかったのです。このような力が土台になったがゆえに、彼らが語る言葉が天地を動かし得る能力を行使したということを知らなければなりません。

 それならば当時、使徒たちは、どの程度まで一つになったのでしょうか。有無相通ずるぐらいに一つになりました。彼らは、自分のものと相手のものとの区分がありませんでした。彼らは神様のみ旨を中心として、『私はあなたであり、あなたは私である』という一体の心情によって、二人が一つに10人が一つに団結したのです。ですから彼らは、誰かがある困難なことにぶつかるようになったときにも、それをある個人の困難としてほうっておいたのではなく、自分の困難として考えたのです。

 このように兄弟の困難を自分の骨と肉、骨髄までしみ込む困難として感じるようになったとき、天も動いたのです。ですから皆さんも、お互いが自分のすべてを忘れ、ただ父のみ旨一つだけのためにいかなる犠牲が伴ったとしても、自分のすべてを捧げようという心、兄弟の困難を自分の困難として感じられる心の所有者にならなければならないことを心に銘じてください」(3−219、1957.11.10)


 今週はお盆の期間でした。皆さん、家族とかご夫婦でお墓参りに出掛けられましたか。氏族復帰のために、親族、氏族の所に訪問された方もいるのではと思います。


 ところで、家族や夫婦で、氏族の家に出掛けられるのも、体が健康だからできることです。では、体が健康かどうかを測るバロメーターは何だと思いますか。いろいろあると思いますが、一番分かりやすいのは、食欲です。食事の時間が近づいたら、健康な人はどうですか。おなかがグーと鳴った経験は誰にもあるでしょう。それは、何よりの健康な証拠ですね。おなかが、「食べ物を早く体の中に入れてくれー!」と叫んでいる「声」ですね。そんな時は、ご飯が待ち遠しくて、待ち遠しくて、たまらない時ではないですか。言い方を変えれば、ご飯が恋しくて、恋しくて、あるいは、慕わしくて、慕わしくて、どうしようもない、そんな時ではないかと思います。病気などで体の調子が悪い時は、食欲もないし、目の前においしい食べ物があっても、手が出ない時があります。そんな時は、不健康な時と言えます。

 それでは、皆さんにお聞きしますが、心の健康な時とは、どんな時のことを言うのでしょうか。好きなことをして心が楽しい、また、美味しいものを食べて心が喜ぶとき、○○バイキング料理の時など、皆さん、とても嬉しいですよね。しかし、今私がここで言う「心の健康」というのは、「心霊」のことであって、「本来の心の健康」のことを言っているのです。

 では、「心霊」の健康のバロメーターは何でしょうか。体が健康であるかどうかを測るのが、食べ物に対して、どれだけ恋しい思いを持つのか、慕わしい思いを持つのかであるように、心霊における健康チェックも、どれだけ恋しいと思える人、慕わしいと思える人を自分の周りに持っているかによって決まると言えます。それは、「この人に喜んでもらいたい!」「この人を幸せにしてあげたい!」「この人に尽くしてあげたい!」、そんな心情です。

 人の顔は、自分のほうを向いていませんね。相手のほうを向いています。なぜでしょうか。相手の心に、安心と、信頼と、「私はあなたのために生きたい!」という心を伝えるためです。そのような、「この人のために生きたい!」と思える人を、どれだけ多く自分は持っているのかというのです。

 自分の好きな食べ物が多ければ多いほど、幸せを感じることができますね。先ほど話したバイキング料理が良い例です。それと同じように、そのような人をたくさん持っている人は、心が健康な人だと言えます。逆に、そのような人を持っていない人は、心が不健康な人であるということになります。つまり、他人のことより、自分のことを優先する心を多く持った人は、はっきり言って、心が不健康な状態にあると言えます。

 皆さん、自分のことより、相手のことを心配し、その人のために何かしてあげたいと思える人が、周りに何人いるでしょうか。

 今、自殺する人が年間3万人以上いるそうです。「人は、他の人のために生きる目的で生まれてきた!」と言いますが、そのような人は、自分の周りに、「その人のために生きたい!」と思える人が誰もいなかったと言えないでしょうか。もし、いたならば、「死」を選ばず、その人のために、自分の人生を投入していくのではないでしょうか。

 では、なぜ人は、他の人のために生きるように生まれたのでしょうか。それは、私を成長させてくれるのは、私ではなく、他の人、つまり相手によって成長できるという原則があるからです。相手との授受作用によって、成長し、発展するという原則があるのです。神様も、成長したくて、人間を創造したのですから。もちろん、神様の成長とは、愛の成長であり、拡大です。

 イエス様は、なぜ十字架で死ななければならなかったのですか。イエス様が抱いていた、奥深くの心情の世界を伝えられる人がいなかったからです。イエス様の周りには弟子たちがおり、多くの民衆がついて行きましたが、一人だに、イエス様の心の内の寂しく、悲しい心情を理解する者はいませんでした。たった一人ぼっちのイエス様だったのです。ゆえに、ひとり、「死」の道を行かざるを得ませんでした。

 初期のキリスト教会のことを、ギリシャ語でエクレシアと言います。イエス様をキリストとして信ずる者が、兄弟愛をもって、互いに愛し合い、また、礼儀を持って互いに相い譲り合う所、それがエクレシアだというのです。

 私たちも、キリスト教の初期にあったエクレシアを思い起こし、み旨を中心に兄弟愛で一つになれば、120人門徒の上に天運が降り、奇跡が起こったように、必ず天が動き、そして共に働いてくださり、奇跡的結果、実績が与えられると、確信を持って歩みましょう。

 み旨を中心に、互いに愛し合える仲間がいるということは、互いに高め合い、成長し合う関係にあるということです。それは、実に素晴らしいことではないですか。
 責任者は自分の元にいるスタッフの抱えている課題や問題の解決のために、スタッフは自分の元にいるリーダーや教会員のために、互いに祈り合いましょう。また、教会員は自分の家族をはじめ親族の幸せのためにもっと祈りましょう。

 そのような、愛を中心とした教会こそ、天が働き得る教会であることを確信します。


posted by ffwpu at 11:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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