2013年02月09日

祝福家庭の使命と天一国創建

梁取隆範.jpg統一教会
 梁取隆範
<2012 秋季 牧会者説教集 P.74~78>

訓読:『平和を愛する世界人として』序文から
 「真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です。真なる愛は、愛を与えたということさえも忘れ、さらにまた与える愛です。私は生涯、そのような愛に酔ってきました。愛以外には、他のどのようなものも望んだことはなく、貧しい隣人たちと愛を分かち合うことにすべてを捧げてきました。愛の道が難しくて涙があふれ、膝をへし折られても、人類に向かう愛に捧げたその心は幸福でした」

 人はどうしたら幸福になれると思いますか。『原理講論』には「幸福は、自己の欲望が満たされるとき感ずるのである」と書いてあります。はたして、自分の欲望が満たされるときに、皆さんは幸福を感じているのでしょうか。『原理講論』には続いてこう書いてあります。「しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりも悪の方向に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである」。

 昔のインドの文献に出てくる話に、このようなものがあります。神々は人間を愛し、人間に大切な贈り物を与えようと思った。しかし、いま人間にそれを与えてしまったら、人間はその価値も分からずに、粗末にしてなくしてしまうかもしれない。それで、神々は、その価値が分かるまでは、人間に見つからない所に隠しておくことにした。山の頂に隠せば見つからないか、海の底深くに沈めたら見つからないか、いろいろと考えたあげく、人間が最も探しもしないある所に隠してしまった。

 いったいどこに隠したのでしょうか。この寓話の答えは、人間自身の心の中でした。人間は自分の心の中を見るのが最も苦手だというのです。

 今、私たちの心はどこに向かっているでしょうか。皆さんの心はきちんと、神様と父母様の摂理の方向に向かっているでしょうか。

 これから私が話すことが分かれば、皆さんは誰でも一瞬にして幸福になれます。それは何でしょうか。それを知るためには、父母様がいかなるときに幸福を感じられるかを知らなければなりません。父母様が、いつ幸福を感じてこられたのかを知らなければならないのです。


 第二次大戦でドイツのナチスの強制収容所でたくさんのユダヤ人が死にました。その中で、生き残った人の中に、『夜と霧』という本を書いたフランクルという精神科医がいます。彼は収容所の中で仲間から何度も自殺の相談を受けたそうです。どうしたら、自殺を思いとどまらせるか、生きる希望を与えられるか。毎日、誰かが死んでいくのを見ながら考えたのです。

 奇跡的に生き残った者たちも、収容所から出たあと、悲惨な二つのパターンに分かれました。一つは、願った家族と再会し、もうそれ以上、何も知ろうとせずに家に閉じこもってしまう人です。もう一つは、願った家族にめぐり合えなかったか、あるいはその家族や社会に失望し、もう一度、あの地獄のような収容所に戻りたいと願った人です。そのいずれかだったそうです。地獄のような強制収容所から解放されることを願った、その結末は悲惨なものになってしまったのです。彼らは何が間違っていたのでしょうか。

 では、お父様は興南収容所から解放されるとき、どうだったのかを見てください。

 興南強制収容所から解放されたとき、お父様は40日間、失った弟子たちを探されました。探されながら、ご自分は凍って腐りかけたじゃがいもをかじりながら飢えをしのぎ、腰につけたはったい粉を大事に持っておられたのです。そのはったい粉はご自分が食べるためのものではなく、探し出した弟子たちに食べさせてあげるためのものでした。しかし、お父様が探し出されたのは、朴正華氏をはじめ3、4人だけでした。すでに他の弟子たちは南に逃げていたのです。

 その人を探し出してはったい粉を食べさせてあげたとき、お父様はどうだったのでしょうか。そのときのお父様は幸福だったのです。おいしそうにはったい粉を食べる朴正華氏を見ながら、お父様は幸福だったのです。お父様にとっては、そのはったい粉は自分の飢えを満たすためのものではないのです。誰かに食べさせて初めて幸福を感じるものだったのです。

 このように、私たちが幸福を感じるであろう場所と、お父様が幸福を感じられる場所は違っていたのではないでしょうか。お父様が幸福を感じる場所は、いつも悲しみや苦痛の絶頂においてだったのです。それも最高に悲しい苦痛の中におられる神様とともにおいてではないでしょうか。

 先ほどのナチの強制収容所から解放されたフランクル博士も、「人生に何かを期待するのではない。むしろあなたは人生に期待されている。人生とは、その期待にどのように応えていくかの連続である」という結論を出しました。

 父母様の生涯路程は、正に神様と人類の期待や願いに応えていく連続でした。私たちも、実は、今日まで神様の願いや期待に応えていく連続だったのです。神様、父母様から愛され、夫や妻から期待され、子供や両親から期待され、氏族、知人、友人から期待され、霊界からも期待され、それに答えを出し続ける人生だったのです。

 「今も私の中には、いまだすべて与えきれない愛だけが満ちています」とお父様が自叙伝で語られたように、私たちの心の中にも、まだ与え足りない愛が満ちています。妻に対して、夫に対して、子供や両親に対して、氏族や知人・友人にもっと与えてあげたいと思う、それが氏族的メシヤだというのです。ですから私たちの幸福は、夫や妻に、子供や両親に、氏族や知人・友人に与えるときに感じるようになっているのです。そのようにして氏族的メシヤが勝利されていくのであり、天一国の創建がなされていくのです。

 もしも、かの昔、インドの神々が私たちの心の中に隠していたものがあるとするならば、それこそ真の愛ではないでしょうか。与えても与えても、まだ与え足りない父母様の愛だったのではないでしょうか。この世のサタン世界に晒さらせば、すぐに傷つけられ、裏切られてしまい、存在するのも困難だった、その真の愛を、ついに私たち人類は天地人真の父母様の勝利によって手にすることができるようになり、またその愛に生きることができるようになったのです。

 16歳(数え)のときに書かれたお父様の詩の中に書かれている苦悩を見てください。「人を疑えば苦しみを覚え、人を裁けば耐え難くなり、人を憎めば、もはや私に存在価値はない。しかし、信じてはだまされ、今こ 宵よい、手のひらに顔を埋めて、苦悩と悲しみに震える私」。これが、生きるのも困難だったお父様の姿であり、勝利の王冠は、それを勝利されたお父様の真の愛の証しであり、その勝利の相続者が受ける王冠もまた真の愛であるということです。

 2010年から、父母様の勝利圏が私たちに相続される時代になりました。2012年までがその猶予期間です。もう1年も残っていません。八大教材・教本が与えられています。何をためらうことがあるでしょうか。果敢に正々堂々と、勝利された真の父母様を証していく時なのです。

 天地人真の父母様の勝利により、神様の全体、全般、全権、全能が発揮される時代になったので、み言を訓読し、実践すれば、霊界が協助して、私たちを完成に導きます。そして反対に、この世は崩壊していきます。早く氏族を救ってあげなければなりません。

 母の国日本は今、父母様とともに摂理の絶頂を越えようとしています。そして、聖歌37番にあるように、天国の入籍を果たすために、御父の印証を示して真珠門を入って行かなければならない時です。難しい時代であればあるほど、神様の真の愛を相続するチャンスだということを知らなければなりません。いつも歴史は、苦難の絶頂が神様の祝福の場だったからです。

 私たちは、あれを食べよう、これを飲もう、あれを着ようという欲望を満たして幸福になるのではありません。父母様のように、創造本然の願い、真の愛が発露する時に、その愛の欲望を満たして、私たちも幸福を感じるのです。

 祝福家庭の幸福と完成は、正に真の愛を相続し、この創造本性を発揮し、神様のみ旨を成就することによって成されます。日本の食口である私たちが、その先頭に立ちましょう。

 「私は神様から期待されており、父母様から期待されている。私は神様、父母様に期待されたことを成そうとしている。私は人生に期待されており、私は人生に期待されたことを成そうとしている。それを成すことが、祝福家庭の幸福であり、祝福家庭の完成であり、天一国の創建である」。このような確信を持って前進しましょう。


posted by ffwpu at 10:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。