佐藤元一
<2011 秋季 牧会者説教集 P.60~64>
訓読:
「皆さんは先生を『真の父母』と呼んでいますが、その言葉が意味する深い谷間の内容は知らないでいます。しかし、皆さんは真の父母があらゆる人の憧憬の対象となったときには、同時に受難の結実体でもあるということを知らなければなりません。言い換えれば、この地上で十字架の途上に蕩減の祭物として捧げられたものの中で、最高の祭物として登場した方々だというのです。このような悲しい事情を抱えてその悲しみの峠を越えてこそ、父母の立場が完全に決定されるのです」(「真の父母」より、1969年9月21日)
「私は、人間としてはあなた方と同じです。では、何が違うのでしょうか。私は、生涯神の心情を受けることに捧げ尽くしてきました。誰も私ほどには、神様のことについて知っている人はいないでしょう。神様を知っているだけでなく、神の心情を感じとっているのです。だから私は、神によって光を放つ愛を与えることができるのです」(「再会の心情」より、1977年9月11日)
最初に、あるエピソードを紹介しようと思います。ある知人の話です。この方は高校時代に柔道をしていたのですが、ある時、地域のイベントで模範試合をすることになり、この方と、この方の友人が選ばれたそうです。その時、不幸な出来事が起こりました。試合が始まって、友人に技を掛けて投げた時に、不幸な出来事が起こりました。その友人が亡くなってしまったのです。打ち所が悪く、首の骨を折ったことが原因でした。
これはもちろん、競技中の事故でしたが、この方にとっては、その後の人生を大きく左右する出来事となってしまいました。亡くなった友人は、いろいろな面で本当に良い人だったそうです。ですから、自分が死なせてしまったという悔いる気持ちや、友人ではなく、自分が死んだほうが良かったのでは……という思いとともに、この友人に恥ずかしくない人生を生きなければいけないと考え、頑張ってきたそうです。
もう一つお話をしてみようと思います。
皆様、自分自身のこととして、想像してみてください。もし、海か川で私が溺れていたとして、誰かが水に飛び込んで私を助けてくれました。そして私は助かったけれども、その人が力尽きて、溺れ死んでしまったとしたら……どうでしょうか? このようなとき、私たちはどんなことを思うでしょうか? その人には、年老いた両親がいるかもしれません。あるいは奥さんや小さな子供がいるかもしれません。また、人のために、社会のために良く生きてきた人かもしれません。もしこのような立場に私が立ったとしたら、私を助けて亡くなってしまったその人の分まで、私は良く生きようと思うのではないでしょうか。その人の分まで良く生きようと思うのが、人間の本性ではないかと思うのです。
さて、きょうのみ言に戻りましょう。訓読した最初のみ言です。
「皆さんは先生を『真の父母』と呼んでいますが、その言葉が意味する深い谷間の内容は知らないでいます。しかし、皆さんは真の父母があらゆる人の憧憬の対象となったときには、同時に受難の結実体でもあるということを知らなければなりません。言い換えれば、この地62 63神の心情を感じとる者となりましょう上で十字架の途上に蕩減の祭物として捧げられたものの中で、最高の祭物として登場した方々だというのです。このような悲しい事情を抱えてその悲しみの峠を越えてこそ、父母の立場が完全に決定されるのです」
これから紹介するのは、亨進様が真の父母様の愛、真の愛について悟られて語られた話の一部です。このような話でした。
「真の愛は、真の父母様の愛は、地獄に落ちなければならない子女たちのために、ご自分が犠牲になって、子供たちのために身代わりになって死に、また死に、また死に、死んだことを忘れてまた死に、それでも真の愛を捧げようとする、そういうものが父母の心情だったのだ。天国に入ることができない子女のために、私のために、私の家族のために、私の氏族、民族、国家、世界のために、何度も何度も自らを犠牲にされて、私たちを天一国に押し出そうとする、それが父母の心情なのだということが分かってきました。
私は真の愛を悟ったとき、真の父母様の前に悔い改めなければならないと思いました。私は過去10年にわたって修行し、2年間にわたって牧会を行い、原理を教え、真の愛を説いてきましたが、実は、その真の愛が何かを知らないままにしてきたのだと思います。
私は真の愛についての説明はよく聞いていました。ために生きる愛、与えて忘れる愛、利他的な愛、自然屈伏の愛……。しかし、それらはまだなんとなく空をつかむようで、私の心の中で実感を伴った確実なものとして感じることは難しかったのです。
しかし、真の父母の心情……。私たちが真の愛と言うとき、真の父母様の愛と言うとき、それは不足な子供たちのために、天国に入ることができない子供たちのために、代わって死んであげ、また死んであげ、それでも犠牲になって、それを7回繰り返して、子供たちを、そして子供たちの家族を天国に押し出してあげる、そのような愛をもって、真の愛というのだなということが分かってまいりました。
私はこのことを悟ってから真の父母様の前に悔い改めの手紙を書きました。『お父様、私はあなたの前に孝行を尽くそうとして、10年間、修行の道を歩んできました。そして2年間、牧会を通して多くの人に原理のみ言と真の愛を教えようとしてきました。しかしその本質を知らないままで、人々を導こうとしていました。お父様、この不足なる私をどうか許してください』。
父母の心情がどれほど深いものであるか知らないままで、私たちは真の愛と言ってこなかっただろうか」
皆様がご存じのとおり、いわゆる「七死復活」の真の愛のことです。亨進様のこの話を初めて聞いた時、大変な衝撃を受けたことを思い出します。私自身も涙ながらに悔い改めるほどに、真の父母様の真の愛がどのようなものかを実感しなければならないのに……。言葉としては理解しているけれども、本当の意味を実感しているだろうか? まだまだだなあと思いました。それ以後、まだ終えていない、私自身の宿題となっています。
最初にお話ししたとおり、一般社会でも、もし誰かが自分を助けるために、犠牲になり、亡くなったとするならば、自分自身の考えやその後の人生が以前とは全く違うものになるだろうと思います。
まさしく真の父母様は、それ以上のお方なのです。しかも、本来なら、そのような苦労の立場に立つ必要がないのに、不足で、罪深い私のために、どんなものとも代えることができない尊い真の父母様が、私のために、また私の家族のために、氏族、民族、国家、世界のために、「七死復活」の真の愛を投入してくださり、生かしてくださったのです。私を生かすために、犠牲になり、1回死に、また死に、また死に……7回死なれた真の父母様。私たちはまずこの事実をはっきりと知り、64 65受け止めるべきでしょう。そうすれば、私の思いが、考えが変わるでしょう。そうしながらも、心情的に、霊的にとらえ、実感できるようになることが重要です。
二つ目のみ言をもう一度訓読してみましょう。
「私は、人間としてはあなた方と同じです。では、何が違うのでしょうか。私は、生涯神の心情を受けることに捧げ尽くしてきました。誰も私ほどには、神様のことについて知っている人はいないでしょう。神様を知っているだけでなく、神の心情を感じとっているのです。だから私は、神によって光を放つ愛を与えることができるのです」
このみ言の中に、真の父母様の真の愛の秘密があると思うのです。お父様は神の心情を受けることにご自身の生涯を捧げ尽くしてこられました。お父様が神の心情を受けようとするのに生涯を捧げ尽くしてこられたということに驚きを感じるのです。お父様さえもそうなのですから、私たちが神の心情を受けるには、気持ちとしては、それ以上でなければいけないのではないかと思うのです。
そして、お父様は神様を知っているだけではなく、神の心情を感じとっているのだとおっしゃっているのです。このことは、お父様や亨進様、あるいは真の子女様だけのことでなく、私たちも目指すべきものなのです。そのために「統一原理」のみ言と祈祷の精誠が必要です。聖書の中に「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまことをもって礼拝すべきである」とあるとおりです。
きょうは、真の父母様の「七死復活」の真の愛と、真の父母様は神様を知っているだけでなく、神様の心情を感じとっていらっしゃるということを学びました。
多くの祈りと精誠を捧げながら、神様と真の父母様に喜びをお返しする私たちになりましょう。



