2012年12月08日

動機

佐藤雅彦.jpg統一教会
佐藤雅彦
<2012 夏季 牧会者説教集 P.49~65>

聖書拝読:コリント人への第一の手紙 第13章1〜7節

 「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」

 私たちの信仰生活におきまして、何年、何十年と長く信仰生活をしてきても、あまり成長を感じられないときがあります。相変わらず文句を言い、相変わらず不平を言い、相変わらず人を裁き、相変わらず人の悪口を言い、自分の愛の無さに愕がく然せんとします。たとえ長く信仰生活を送ってきても、心情の成長を感じない、愛の器が広がっていない自分を発見するとき、謙虚に、少し立ち止まって自らの信仰生活を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。


 私たちは天国を創るために来た立場です。政治の活動家のようでもなく、運動家のようでもなく、極めて本質的には内的な世界の覚醒が願われるのではないでしょうか。もちろん氏族的メシヤとして、アベル圏、カイン圏を伝道しなければなりません。その時こそ、私たちの内的器、愛の器が問われるのではないでしょうか。 以前、大母様の天運相続の大会がありました。その大会後の信徒の集会の場で、「皆様は祝福を受けて原罪はなくなりましたが、罪のままに生きましたね。堕落性のまま生活しましたね」と涙ながらに、私たちに訴えられたことが、とても心痛く、悔い改めたことがありました。

 正にきょうお話ししたい内容は、どのようにしたら心情の成長がなされ、愛の成長がなされていくかということです。それが説教の題になっている、「動機」という問題なのです。

 心情の成長、愛の成長で最も生命視すべきは、この動機なのです。信仰生活で最も重要なのはこの動機です。生活、活動、言動、会話、人間関係、万物の取り扱い方などのあり方の私の動機、情の出発点がどこにあるかによって、結果が大きく異なってくるのです。

 木に例えて言うならば、動機はその木の根です。良い木、それは良い動機があり、良い実がなります。悪い木は、悪い動機があり、悪い実がなるのです。そして動機は木の根に例えられるように、土の中に埋まって人の目から見えないのです。人の目には見えない動機こそが、全ての言動の背後にあって、決定的影響を与えているのです。

 動機が真の愛で、「ために生きる」利他なのか、それとも怒り、自己中心、恨みからなのか、よく動機をチェックする必要があるのです。何が恐ろしいといっても、動機は木の根が土の中に埋もれて見えないように、隠れて全く見えないのです。ですからいくらでもごまかせ、曖昧にしてしまうのです。

 しかし、神様は私たちの動機を見つめている方なのです。神様は単に私たちの仕事の成果のみを見られるのではないのです。私たちの心情の動機を貴重にして対される方なのです。

 もちろんサタンも私たちの動機を見つめています。動機こそ神とサタンとの熾烈な奪い合いの焦点なのです。

 生まれながらにして罪人の私たちは、気を緩めると、一つ一つの動機が奪われるのです。堕落性の考え方、自己中心的な捉え方、その一つ一つを方向転換させて、神様を中心とする、愛を中心とする善なる考え方、捉え方、見つめ方に転換していかなければならないのです。

 お父様は大変な実力、能力、才能を持っていらっしゃる方です。さらに私たちと大きく、決定的に異なるのは、その内的世界にあるのです。ご自分を中心とする動機を見いだすことができず、全ては神様のためであり、み旨のためなのです。心の中に神様を住まわせられ、神様が喜ぶことを喜ばれ、神様が悲しまれることを悲しまれるお方なのです。平凡に見える立ち居振る舞いの背後に、私たちとは天と地ほどの開きを感じさせられる心の世界があります。

 したがって日々の信仰生活で、いかにお父様のそのような世界を学び取り、物の見方、考え方の一つ一つに至るまで、お父様に似た者となっているかということが、私たち信仰者の最も中心的課題なのです。お父様に似る、お父様に倣うとは、正にこの内的世界なのです。

 ここで動機について、ここまで影響があるのかと思えるお話をご紹介したいと思います。これはお父様が、アメリカで「アメリカに対する神の希望」というみ言の中で語られているものです。

 「二つのはっきりとした例えを挙げてみましょう。アメリカ、北アメリカに来た人々は神と礼拝の自由を求めてやって来たのです。最初の移住者の唯一の動機は神でした。神のためにやって来た時、彼らは神ばかりでなく自由も富も得たのです。同時に、多くの人々が南アメリカに行きました。彼らの唯一の動機は金でした。南アメリカは北アメリカ大陸に劣らず肥ひ 沃よくな土地でした。しかし、植民者の動機が金であった時は、金はおろか神も自由も見いださなかったのです。そして、南アメリカは低開発国のままで残ったのです」

 「メイフラワー号はニューイングランドにあるプリマスロックという所に冬のさなかに到着したのです。ニューイングランドの11月はかなり寒いものでした。新しく到着した者は飢えに瀕ひんしたのです。彼らが死ぬほどおなかがすいても、メイフラワー号に積んである穀物の蔵に手をつけなかったという事実は、本当に私を感動させました。彼らは春の穀物の植え付けのためにとっておいたのです。これは実に犠牲の崇高なる例であります」

 これは1620年11月にメイフラワー号がアメリカに到着した時のお話です。今のアメリカにはいろいろ問題はありますが、今でも世界の経済大国であり、世界をリードする国になっています。神の祝福を受けた国なのです。一方、南アメリカは、お話にもありますが、低開発国のままです。本当は南アメリカのほうが、金を求めて入っていったことを見ても分かるように、地下資源も豊富であり、土地も肥沃であるというのです。外的条件では南アメリカのほうが裕福になれる要素があったということなのです。しかし最初に入っていった動機が全く違うというのです。一方は神、一方は金と。

 先ほども言いましたが、動機は見えませんが、全ての言動の背後にあって決定的な影響を与えるということです。神を中心にした利他中心の生活、言動は必ず神様が祝福してくださり、愛が膨らみ、希望にあふれ、健康にも恵まれ、幸福へと私を導くでしょう。しかし、もし私が、サタンを中心にした自己中心の生活、言動をするならば、恨みが募り、絶望に遭い、不幸が訪れるでしょう。

 動機は成長していくものです。初めは個人的な動機から信仰生活を出発したとしても、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神と8段階を上っていくのです。動機が個人、家庭次元のまま成長しなければ、自分の考えどおり待遇されたいと思い、自己中心の動機が転換されないばかりか、神様と無関係に自己主張ばかりする人になってしまいます。このような人は根のない木のようであり、自らの生命を育むことに限界を感じるようになります。

 一つ一つの動機をサタンに奪われることなく、常に動機を正し、豊かに愛の人格を実らせ、神様に喜んでいただける自分自身を捧げ、真の歩みを供えていきましょう。ありがとうございました。


posted by ffwpu at 11:12| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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