2012年12月01日

悔い改めと恩寵

HGN hiroshima-2.jpg統一教 世界会長 文亨進
 <光言社刊「文亨進説教集3 悔い改めと精誠」 P.85~99>
  
二〇一〇年四月四日

まず『世界経典』のみ言を共に分かち合う時間をもちましょう。キリスト教の『聖書』、「コリント人への第一の手紙」第十三章六節から七節までです。

「(愛は)不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。

仏教の龍樹による『宝行王正論』四百三十七です。

「慈悲とは、すべての生きとし生けるものに対して憐れみが一味平等である心であります」。

イスラームの『バイハギ・ハディース』の一節です。

「すべての被造物は神の子女だが、神が最も愛する者はその方の子女たちを親切に世話する者である」。

真の父母様のみ言は『祝福と理想天国T』「祝福と理想家庭」第一章三節の八番目の主題「真の愛の完成」に出てくる一節です。

「『私』一人だけのためのものは真の愛になれません。真の愛が『私』個人の所有にはなれません。真の愛は、万人のものであり、宇宙共有のものです。真の愛は、家庭、社会、国家、世界、宇宙まで連結されるものです」。アージュ!


パリサイ派の傲慢な態度
きょうの『聖書』のテキストのみ言は、「ヨハネによる福音書」第八章一節から六節までです。

「イエスはオリブ山へ行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった」。


「ヨハネによる福音書」第八章には、イエス様の三年の公生涯の活動中にあった有名なエピソードが記録されています。多くの人たちがこの一節を知っていますが、その背景はよく知りません。

この事件は、仮庵の祭りというお祭りが進行していた時に起こりました。仮庵の祭りはエジプトを脱出して約束の地、カナンに向かう途中に、イスラエルの人々が四十年の間、荒野で天幕生活をしたことを記念するための、ユダヤの三大祭りの一つです。仮庵の祭りを祝う間、ユダヤ人たちは先祖がそうしたように畑に小屋を建て、その下で生活しました。イスラエル民族が神様の導きに従って苦難に打ち勝ち、カナンの地に向かったことを記憶しようとするものです。安息日に始まった祭りが終わる八番目の日は、ユダヤ教徒たちの安息日になります。八番目の日には休んで、仕事をしてはいけません。正に仮庵の祭りが終わったあと、安息日に「ヨハネによる福音書」第八章の話が展開しているのです。

イエス様は、ユダヤ教の聖殿で教えを与えていらっしゃいました。その時、パリサイ人たちはイエス様を試すために、姦淫して捕まった女性をイエス様の前に連れてきます。そして、「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と尋ねます。モーセの律法、ミシュナ律法七章二節と十二章五節を見れば、姦淫した女性だけでなく、男性まで石で打って殺さなければならないと記録されています。ところが、律法者たちがそれを破り、イエスを試すために女性だけを連れてきたのです。そのような彼らには、女性に対する配慮や同情心など全くありませんでした。その時、イエス様はそのパリサイ人たちが先に罪を犯しているということを御存じでした。

原理的観点から見れば、全ての人々は原罪、遺伝的罪、連帯罪、自犯罪など、四つの罪を犯しています。パリサイ人たちにもこのような罪がありました。ところが、自分たちの罪は省みずに、女性の罪だけを尋ねました。彼らが自分たちの罪を認めたとすれば、救世主を信じ、従うことができたかもしれません。けれども、彼らの傲慢と慢心は救世主を死に追い詰めるにおいて、大きな罪を犯してしまいました。私たちはみな、自らが罪人だという事実を知らなければなりません。それでこそ、その罪を赦してくれ得る救世主の真なる価値が分かるのです。この聖書の一節は、このように卑劣で同情心のないパリサイ人たちの傲慢な態度をしっかりと見せてくれます。彼らは女性を全く配慮しなかったし、律法を教える者たちであるのに律法に従わなかったし、ただイエス様を陥れようとだけしました。

律法をよく知っていることを行動で示したイエス様
次に「ヨハネによる福音書」第八章六節から八節までの聖句を一緒に見てみましょう。

「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた。『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた」。

 多くの人たちがこの聖句を知っていますが、その真なる意味は知りません。イエス様はお話しされる前に、まず文字をお書きになります。モーセの律法を見れば、八番目の安息日に働いてはいけませんが、二文字以上書くのも不法だと考えました。しかしユダヤ教の解釈の伝統によれば、土に書くのは大丈夫でした(シャバット七・二、一二・五)。イエス様は答えられる前に、行動でモーセの律法とユダヤ教の解釈の伝統をよく知っていることを見せられたのです。

 また、ユダヤ教の伝統によれば、罰する前に罪人に悔い改める機会を与えなければなりませんが、パリサイ人たちはそのような機会も与えませんでした。彼らは自ら律法を破りながら、イエスを試そうとしたのです。彼らはイエス様が何をするのか、何を書いているのか、認識できずに、ずっと尋ねました。

 その時、イエス様が立ち上がられて、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」とおっしゃいました。このみ言は、傲慢なパリサイ人たちに向かって「あなたたちはにせ物だ。あなたたちはモーセの律法をよく知っていると考えているが、事実ではない」とおっしゃったのです。イエス様は誰も石を投げられないことを知っていました。なぜなら、とても明白に彼らの偽りを見たからです。

 イエス様はこのようなみ言とともに、彼らに罪を悔い改めることのできる機会を下さいました。主の前で悔い改めれば赦されました。しかし傲慢なパリサイ人たちは不愉快に思いながら、その場を離れました。

女性は率直に罪を認めた
 「ヨハネによる福音書」第八章九節から十一節です。

 「これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた。『女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか』。女は言った、『主よ、だれもございません』。イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」。

 パリサイ人たちは良心に呵責を感じ、その場を立ち去りました。年長者から若者まで順に消えましたが、ここにおいて年長者とは、律法学者たちの先輩であり、先生です。彼らは罪から自由になれていないことを自ら認めました。先に立ち去ったのは、彼らもモーセの律法を守らないでいることを見せてくれます。

 イエス様は彼らに、自らの良心を顧みるようにされたし、罪に満ちていることを悟るようにされました。イエス様は女性に、みんなどこに行ったのか、彼女を非難する者が残ったのかをお尋ねになりました。イエス様はほかのことを尋ねることもできましたが、偽善者が立ち去ったかをお尋ねになりました。

 ここで注目すべき内容が一つあります。その女性はイエス様の前に立たせられましたが、自らが罪を犯したことを否認せずに審判を待ったという事実です。騒動を起こして、罪をかぶったのだとうそをつくこともできました。しかしその女性は、率直に罪を認め、イエス様の処分を待ちました。イエス様は女性を罪に定めないとおっしゃり、「行きなさい。もう罪を犯してはならない」と勧告なさいました。これが正に第八章の核心です。

 多くの人々は、「ヨハネによる福音書」第八章で、イエス様が女性の罪を赦したと考えます。しかし、違います。イエスは実際に彼女の罪を赦したのではなく、ただ罪に定めないとおっしゃいました。もちろん彼女を罪に定めないというみ言に赦しが含まれますが、この聖句の核心は、恩寵と慈悲の気持ちで、イエス様が罪人を抱き、お赦しになったということです。

イエス様は「罪」を赦しはしなかった
 この聖句を見て、このように言う人もいます。「イエス様が姦淫した者を赦されたので、浮気をして道を外しても赦されるだろう」。しかし、これは事実と異なります。イエス様は「罪」を赦しはしませんでした。真実な心で悔い改めた「罪人」を赦されたのです。そして、再び罪を犯してはならない、とおっしゃいました。

 私たちのうち、どこの誰も完璧ではありません。程度は異なりますが、全部罪を犯しました。しかし、真実に悔い改め、赦しを請うた時、主は罪ではなく、罪を犯した人を赦してくださいます。

 ここ、聖殿に集まった私たちも、自らを顧みれば、罪のない人はいません。皆に罪があります。神様の前で審判されるべきなのは私たちでしたが、真の父母様は七顚八起の苦難を通して、私たち個人の罪だけでなく、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙的な罪の代価を支払ってくださいました。罪のある私たちに、神様と真の父母様が恩寵と慈悲を施してくださったのです。

赦しは恩寵
 多くの人々が『聖書』を見ながら、「神は愛である」(ヨハネT四・八)という聖句をもとに「神様は愛の神様なので、どんなものも憎むことはできない。罪をたくさん犯したとしても、私を憎まない」と考えたりもします。しかし、これは完全に間違った考えです。愛の神様なので、罪を憎まれます。愛の神様なので、明らかに悪を排斥されなければなりません。真の愛は、罪または悪と全く関係がありません。神様は善であられるので、悪を嫌われます。神様は真実であられるので姦淫を嫌われ、真実であられるので偽りを嫌われます。

 この聖書の聖句において、イエス様は本質的に罪人は赦しても、罪はお赦しになれないことを明確にされます。ですから、女性に「行きなさい。もう罪を犯してはならない」とおっしゃったのです。イエス様は女性が罪を犯したし、これが神様を怒らせるという事実を知っています。しかし罪人に恩恵を施し、罰を下しません。イエス様は、罪は憎みますが、罪人に同情するからです。

 私たちが赦しを受けるのは、また罪を犯してもかまわないという許可証ではありません。赦しは恩寵です。赦しを通して、私たちは罪から解放され、自由を得ることができます。ところで記憶すべきことがあります。自由には責任があります。イエス様は女性に、新しい生活を送り、罪を犯すなと言われます。これは彼女が再び罪を犯して、同じ状況を繰り返せば、人々の審判を受けるようになるのを暗示します。神様は自分の任意に解釈し、教育する道具としてではなく、神様の本質に似ることのできる道徳律として律法を下さったのです。神様が真実であられるので、私たちも真実でなければなりません。神様は善であられるので、私たちも善でなければならないのです。神様と真の父母様が赦してくだされば、子女である私たちも赦さなければなりません。真の父母様の教えに逆らうのは罪です。信仰者として、私たちは罪を憎みますが、罪人は赦さなければなりません。私をはじめとして、私たちのうち誰が、神様の完全さの前で堂々と立つことのできる人がいるでしょうか。私たちには、小さな罪でも大きな罪でも、罪があります。

神様と真の父母様により天国への道が開かれた
 家庭訪問をしながら、子女が世俗で結婚をし、真の父母様の教えに逆らったので、自らが失敗者だと考える祝福家庭に会いました。「子供をもっと正しく育てなければならなかっ
た」と言って、自らを叱責される方々を見ました。

 しかし、記憶してください。真の父母様はお赦しくださいました。祝福家庭が悔い改めた時、真の父母様は蕩減式を通して、再び天の前に進めるようにされました。しかし問題は、過去にそのような食口たちが、再び教会に戻った時、私たちがうまく抱けなかったということです。

 真の父母様と神様が赦してくださいました。真の父母様の子女として、私たちもそのような方々に、以前と変わりなく接しなければなりません。赦しは、私たちが決めることではありません。私たちに罪を赦してあげられる権能はありません。ただ神様と真の父母様にだけ、そのような権能がおありです。彼らが神様と真の父母様に、悔い改め、赦されたとすれば、私たちは信仰の共同体として、その兄弟姉妹たちを再び受け入れなければなりません。真の父母様の赦しは、そのように大きくて広いのです。一世の父母たちも自らを赦し、これ以上自らを叱責しないようにしなければなりません。新しく出発しなければなりません。もちろん、まだ私たちは完璧ではありませんが、神様が恩恵と恩寵を与えてくださいました。神様の真の愛、真の父母様の真の愛によって、天国に進むことのできる道が開かれたのです。本当に感謝しなければなりません。

 ルーシェルの問題とは何でしたか。罪を犯しても、神様の前でこれを否認し、ずっと罪を犯しました。アダムとエバも罪を犯しても、悔い改めませんでした。そのような態度では赦しを受けることができません。神様も赦す道がありません。私たちがまず主に悔い改め、赦しを請わなければなりません。謙虚な態度で真の父母様の前に行くならば、赦しを受けることができます。

 神様の前に誰でも罪人なので、赦しを受けなければなりません。このために、私たちがまず悔い改めなければなりません。真に悔い改める時、天は慈悲と恩寵を与えてくださるのです。私たちには罪を赦してあげる力がありません。ただ神様と真の父母様だけが罪を赦せます。罪を犯した者を霊的な目で見てください。その方を愛するならば、その方の永生を考えるならば、その方を悔い改めの道に導かなければなりません。悔い改めを通して、恩恵を受けられるようにしなければなりません。

人々を霊的な目で見つめる
 イエス様の使命は、罪悪の世界を救援することでした。それが正に、再臨主として来られた真の父母様の使命でもあります。そのような真の父母様に従う統一教会の中には、赦しの文化の花が咲かなければなりません。真の父母様のように世界を愛し、世界を救おうという情熱をもたなければなりません。

 ところで、愛の文化、赦しの文化をつくりたいなら、伝道を実践しなければなりません。伝道を強調すれば、人々は教会をより大きくしようとすることだと考えます。それはあまりにも外的な考えです。伝道をするのは、その人の永生を救援するためです。病気の子供を生かそうと努める父母の心情を実践することです。奉仕は肉身の部分を助けることができますが、伝道をした時、私たちは世の中の人々の永生を救援することができます。私たちは人々の罪を赦してあげることはできませんが、彼らを神様と真の父母様に導き、彼らが神様と真の父母様に悔い改めるようになれば、恩寵を頂き、罪から自由になり得るでしょう。きれいに輝く美しい日ざしを受け、新しい生命として生まれ変わり、新しい未来を見つめて進むことができるでしょう。

 私たちが本当に愛の文化、赦しの文化をつくりたいのなら、人々を霊的な目で見つめなければなりません。世の中の人々の永生を見つめ、彼らを主の前に導き、彼らが赦しを得て、永生を得るようにしなければなりません。それよりも大きな愛はありません。二千年前に、イエス様の前に立った女性は、姦淫して罪を犯しました。しかし主は、女性が真に罪を認め、悔い改めた時、罪にお定めになりませんでした。

 私たちは今、生きていらっしゃる主に侍っています。イエス様の使命を完成された真の父母様の前に、私たちはその女性のような立場に立っています。主に侍っているので、主の恩寵を受けられる、恵まれた立場に立っているのです。祝福家庭として、私たちはそのような恩寵を受けました。今はそのような恩恵と真の愛を、世の中の人々に分けてあげなければなりません。彼らも罪から解放されて、永生を得られるようにしなければなりません。霊的な目を開き、天の恩寵と愛で生まれ変わる喜びを感じることができるようにしなければなりません。

生命を救援できる勇士
 メシヤとはどなたですか。メシヤは世の中を救うお方です。罪人を救うお方にならなければならないとおっしゃいました。国家的メシヤとして、氏族的メシヤとして祝福してくださいました。私たちは父母の心情を相続し、死んでも死んでも、生命を救援できる勇士と英雄にならなければなりません。

 最後に真の父母様のみ言で説教を終えましょう。『み言選集』第四十九巻(「主管性復
帰」)五二ページです。

 「愛する境地においては、全てのものが通じるというのです。法を超えることができるというのです。法を超えることができるという話は、死亡の線を自由に行き来することができるということです。千万世の塀が塞いでいるとしても、誰も侵すことのできない塀があっても、その塀を無難に破って越えることができるのは、愛だというのです。愛するために、全てのものを犠牲にし、全体を投入して飛びかかるそこにおいては、そのいかなる塀も全部崩れるのです」。


7satusetto.jpg資料提供:光言社
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posted by ffwpu at 10:00| 文亨進様説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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