2012年11月24日

神様 ! 為に生きさせてください

小椋勝美.JPG統一教会
小椋勝美
 <2012 夏季 牧会者説教集 P.138~144>

訓読:『天聖経』「地上生活と霊界」第1章有形・無形世界における人間の存在(p.568〜569)より

 「真の愛とは、何でしょうか。自分の生命以上の投入をしなければなりません。生命以上の投入をしない所には、真の愛はありません。生命以上に投入するところから真の愛が成立します。真の愛が成立しなければ、永生はないのです。

 なぜそうなのでしょうか。皆さんがサタンの血を、サタンの血統を受け継いで生まれたからです。それで、聖書には、『「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な第一のいましめである』(マタイ22:37、38)とあります。

 この言葉の意味は何でしょうか。心を尽くして、思いを尽くせと言ったのは、生命までも懸けなさいということです。これが第1の戒めです。

 第2の戒めは、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』(マタイ22:39)ということです。『隣り人を自分を愛するように愛せよ』というのはどういうことでしょうか。生命を懸けて愛しなさいということです。生命を投入しなければいけません。

 なぜ、生命を懸けなければいけないのでしょうか。第1は、サタンを屈服させることができず、第2は、サタンの環境から抜け出すことができず、第3は、サタンの血統から抜け出すことができないからです。サタンの環境から抜け出すことができるとしても、サタンの血統は仕方がありません。真の愛は生命を超越するものです」


 「為に生きる」という言葉は、私たち統一教会の最も中心的な生活信条といってもいいでしょう。真のお父様は、絶えず私たちにために生きなさいということを教えてくださっていますし、私たちも、絶えず「為に生きる」という言葉を胸に日々生活しています。きょうは、日々の生活が本当に「為に生きる」としながら、為に生きていることになっているのだろうか、つまりそれが本当に自分の愛として実っているのだろうか、一緒に考えてみたいと思います。


 きょうの週報のみ言の中に、真の愛は私たち自体が命を懸けることであるとあります。なぜ生命を懸けなければいけないのか。私たちは、サタンを屈服させないといけないし、サタンの環境から抜け出さなければいけないし、サタンの血統から抜け出さなければいけないとあります。

 私たちは祝福を受けて、血統転換はされました。しかし、心情転換まではされていません。つまり、湧き出る思いはまだ自己中心の思いが強いのです。これを転換していくには、自分中心の生活環境から抜け出さなければいけません。ですから所有権転換が必要なのです。自分の所有物から、神様の所有物として生活環境を変えるのです。

 そして今までの自分を動機とした習慣性から、神様を動機とした習慣性を立てていくのです。そこから神様を動機とした心情が湧き上がってくるようになるのです。それが心情転換です。ですから血統転換に始まって、所有権転換、そして心情転換に至るということです。

 そこで、自分という意志が問題です。自分が根を下ろし、自分が足場としているものは何か。自分が生まれ育った環境、家庭であり、家系、血統であるということは間違いのない事実です。そう考えたときに、私たちはサタンによってつくられたものであることが分かります。その中にどっぷりと浸かって、サタンという名前が付いていないだけで、今までの習慣性とか、そういうもの、湧き上がる意志を自分と思っているわけです。自分という思いは、ほとんど、サタンによってつくられたものである、ということを気づかないといけません。

 そういう意識の中で、お父様から私たちは「為に生きなさい」という言葉を受けて、ために生きているのです。しかし、実際、私たちはために生きているようですが、ために生きるというと、誰かのためにしていると思いやすいのです。思わなくても、そのような心情、自己中心の心情があるのです。ために生きようとする「自分」がある。ために生きなければいけないという「自分」がある。そこにまだ自分というものがある。ではそういう自分までも、どうやって否定することができるでしょうか。

 ここで神様を考えてみましょう。神様は人間のためにあらゆる環境圏をつくり、それから人間を創造さました。だからといって、神様は人間を自己満足のために創造されたのではありません。最終的に、神様は、人間を通してそこから喜びを感じて、その喜びを通して神様も真の愛を感じたかったのだ、完成したかったのだと、真のお父様は教えてくださっています。神様も真の愛を感じてみたいのです。

 愛というのは一人では成立しません。必ず対象が必要です。真の愛とは、対象を創造して、その対象のために投入して、その対象が本当に喜ぶその姿を見た時に、本当に喜ぶことができる。神様の中にある真の愛が、その時に初めて完成するということです。神様からすると、その真の愛を完成して、その真の愛を完成するために人間を創造されたのです。

 つまり私たちは、真の愛を完成し喜ぶように創造されているわけです。真の愛を感じるために命が与えられ、生かされているのです。そのように考えてみたことがありますか。「真の愛の人になりたい」、「真の愛を完成したい」、これが私たちの地上生活の目的であり、私が存在する目的です。真の愛を感じられる、実感できる私になりたいかどうか。これが生の原点であるということです。ですから真の愛の完成者になるために、真の愛を実感したいがために対象に投入するのです。ために生きるというのは、誰かのためにしているということではないのです。自分の真の愛の完成のためです。

 ですから「為に生きる」というと、私たちはそういう一番大事なところをちょっと置いておいて、ために生きればいいのだなといって、あれこれやってために生きた、尽くしてあげたように思って満足しているかもしれません。そうであれば、愛の完成の道とは違ってきます。「為に生きる」ことは相手に投入することですが、それは相手のために行っているのではないのです。私の愛の完成のためなのです。

 ですからそこに、相手がどうであるとか、相手の存在が問題ではないのです。自分が愛において不足者であり、もっと言えば不具者です。愛が自分の中にはない。本当にそれが分かったときに、愛のある人になりたいかどうか。要するに、ここです。この思いがあるかないか。「ああ、自分は本当に愛が足りない。真の愛が足りない」そういう自分であるということが、はっきり分かってこそ、ために生きるということが出てくるのです。

 真の愛の人になるために、愛を投入できるのが対象です。だから対象が有り難いわけです。それが夫であれ、妻であれ、親であれ、子供であれ、兄弟姉妹であれ、近所の人でもいいです。本当に有り難い。この人を通して自分が愛を投入することができる。真の愛を完成することができる。どれほど有り難いか。それを通して自分が本当に、愛の不具者から、愛のない自分が生まれ変わることができる。どんなに有り難いか。そのような中に「為に生きる」という言葉が成り立つのです。

 「為に生きる」というのは、お父様が私たちに、親として子にそうしなさいと教えるための言葉です。しかし、私たちが「為に生きる」というときは少し考えてみなければいけません。「神様! 為に生きさせてください」。このように心に叫ぶことが必要ではないでしょうか。自分の思いから出発してしまいやすい私たちです。「神様! 本当に自分には愛がありません。愛の人になるために、どうぞ為に生きさせてください」、このような叫びが必要ではないでしょうか。

 そのことによって、第一に、「神様! 為に生きさせてください」という叫びの中に、神様に対する祈り、問いかけが始まります。つまり、どんな人に対するときも、その瞬間、「為に生きさせてください」と神様に願うならば、そこに祈りが始まるのです。相手に対しているのですが、それは内的には、神様に対するのです。神様に祈りを始めた瞬間でもあるのです。ですから、誰かに何かをするときに、神様に、「この人を通して為に生きさせてください、真の愛を投入させてください」という祈りが始まることが大事なのです。相手がどうであるとかは関係がありません。

 そして、第二に、その祈りを通して自分に真の愛がない、罪人である、その自覚が確認されるのです。「神様、どうか為に生きさせてください」とその祈りが始まり、その祈りから神様と「自分には愛がありません。愛がある人になるためにはどうしたらよいでしょうか」、「愛がないがゆえに生命を投入しなさい。持ち得る自分のすべての精誠を投入しなさい」というような対話がなされるのです。私たちには愛がないのです。愛がないのですべて、生命までも捧げなさい。しかし、この生命までも捧げるというのは難しいことです。

 生命を捧げるということは、肉体の生命を指して言うのではありません。これは愛を中心として言えることです。具体的には二つの愛の基準に表されます。まず、自分の最も愛する人以上に他を愛すること。自分の愛する夫、妻。子供、親がいますね。その愛の基準を超えたとき、つまり最愛の人を捨てでも他の人を愛するとき、生命を捧げたということになります。

 もう一つの基準は、怨讐を愛するということではないでしょうか。自分の最も愛する人を奪い、汚し、殺した人、その人を許し愛するというのは、愛する人を捨てるよりももっと過酷な愛です。怨讐をも許せる愛というものは、私の中には一かけらもない愛です。誰もそういう愛を持っていないのです。これは神様しかないわけです。神様から頂くしかありません。ですから神様に祈るしかない。神様の愛を相続した真の父母様に祈るしかない。「私には愛がない。愛の人となしてください」と祈って、そのことに気づくというのです。

 第三に、自分には愛がない、自己中心であったことには気づきます。祈りを通して。そして、私たちは、願うところが真の愛の人であり、真の愛の夫婦です。そこにゴールを定めることを確認するのです。信仰が長くなったとしても、どんな位置にあったとしても、生涯を懸けて行く道が真の愛の完成の道であると、いつも自覚しておく必要があるのです。

 「為に生きる」という言葉、私たちは文字どおりにだけ捉えやすいのです。「為に生きる」ということは、「為に生きさせてください」という言葉に捉えて、「相手に対して為に生きさせてください」、そこから祈りが始まり、祈りを通して自分に愛がない、自己中心で愛がないということに気づき、そして真の愛の人であり、真の愛の夫婦、家庭を目指して行きたいと、そういう祈りの中で初めて「為に生きる」ことができるのではないでしょうか。これが、お父様が生涯を懸けて私たちに教えてくださった生活哲学ではないでしょうか。これこそがお父様の生活伝道ではないでしょうか。

 全口の皆様、基元節までもう一度、今までの訓練を土台としながら、「為に生きる」、「為に生きさせてください」、そういう謙虚な心を持っていくなら、必ず伝道の勝利者になれるはずです。それであってこそ、私自身が天国に入れるし、私の家庭が、氏族が、天国に入るのではないでしょうか。そのことによって天一国が成されていくのだと思います。

 真の愛の生活実践を中心として、伝道に明け暮れる、これが私たちの基元節までの道です。きょうは「神様! 為に生きさせてください」と題してお話をいたしました。


posted by ffwpu at 11:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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