2012年10月13日

神聖な愛

HGN hiroshima-2.jpg統一教 世界会長 文亨進
 <光言社刊「文亨進説教集1 真の父母様と私」 P.93~108>

二〇一〇年三月二十一日


きょうの説教の主題は「神聖な愛」です。最初に『世界経典』のみ言を一緒に分かち合う時間をもちましょう。

まず『聖書』の「創世記」第二章十八節です。

「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

次はイスラーム(イスラム教)の経典『クルアーン』46・15です。

「われは、両親に対し優しくするよう人間に命じた。母は懐胎に苦しみ、その分娩に苦しむ。懐胎してから離乳させるまで三十ヶ月かかる」。

儒教の『中庸』十二です。

「君子の道は、夫婦にその始めを起こす。その全体を尽くすとなれば、天地上下に明らかである」。

真の父母様の教えである『原理講論』前編、第一章創造原理、第二節、(三)、⑷四位基台の存在様相の内容です。

「アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、正に愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。このときこの中心は、神の永遠なる愛の対象であるために、これによって、神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる。また、ここにおいて初めて、神のみ言が実体として完成する……ところが、被造世界は人間の堕落によってこの中心を失った……」。

きょうの『聖書』の最初のみ言は、「ルカによる福音書」第一章二十八節から三十三節までです。

「御使(ガブリエル)がマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう』」。


メシヤの使命
奉読した聖句を見れば、天使ガブリエルがマリヤを訪ねてきて、「あなたから主がお生まれになる」という知らせを伝えたことが分かります。そして、その預言どおり、マリヤの胎内から世界を救援するイエス・キリストが誕生されました。天使ガブリエルは、イエス様の誕生のみならず、洗礼ヨハネの誕生も預言した神様のメッセンジャーです。

イエス様は、人類が待ち焦がれてきた神様の息子です。イエス様まで続いてきた人類歴史は、窮極的にはイエス様一人を待ち望んできた歴史です。そのようなイエス様を生んだマリヤは、クリスチャンにとっては、とても重要な意味のある方です。

特にカトリックでは、聖母マリヤは、献身と祈りの尊い対象です。私たち人間が、神様の息子であり、万王の王であり、審判主であるイエス様にさらに近づいていけるようにしてくださる仲保者が、正に聖母マリヤであると信じています。それでカトリック信者たちは、ロザリオの珠をつまみながら、五十三回、聖母マリヤに向かって祈りを捧げます。一方で、聖父や聖子に祈祷するときに、「主の祈り」と「栄唱」を六回捧げるのです。ある意味では十倍近く、聖母マリヤに祈祷を捧げているのです。

カトリックでは聖母マリヤを、様々な呼称で呼びます。「神の母」、「新しいエバ」と特別に呼んだりもします。それは、エバが神様に服従しないで堕落したのとは違い、聖母マリヤは神様の預言に従ってイエス様を生んだからです。

しかし、聖母マリヤを「新しいエバ」という観点は、論難の素地があります。なぜなら「コリント人への第一の手紙」第十五章四十五節で使徒パウロは、イエスを「最後のアダム」と言ったからです。エバは本来、アダムの配偶者です。彼らは夫婦になってカインとアベル、セツを生みました。ところが、イエス様とマリヤは、夫と妻の関係ではなく、息子と母の関係です。

二千年の間、クリスチャンたちは聖母マリヤを尊敬し、仕えてきました。真の母に対する憧れは、原理的な観点から見ても間違っていません。カトリックでは神父と修道女は、イエス様と結婚したという基準で一生を献身します。彼らはイエス様を、新郎という観点で見ているのです。このような望みは、新婦あるいは真の母に対する望みともつながっています。メシヤは新郎であって、新婦を迎えなければなりませんし、真の夫婦になり、さらには父母になって神様の国を創建しなければならない使命があるのです。

真のお父様と完全に一体の真のお母様
二番目の『聖書』のみ言は、「マルコによる福音書」第三章三十一節から三十五節までです。

「さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、『ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます』と言った。すると、イエスは彼らに答えて言われた、『わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか』。そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、『ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである』」。

この聖句を見れば、大勢の聴衆が集まっている中で、イエス様は、母親と兄弟姉妹を否定し、「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と言われました。この言葉を聞いて聖母マリヤと兄弟姉妹が、どれだけ寂しく思ったことでしょうか。

ユダヤ教の伝統では、父母に仕える孝の生活を強調します。これは東北アジアの韓国や中国における儒教の伝統と似ています。母親を否定することは、親不孝の中の親不孝です。しかし、イエス様の基準は明確です。

ここで、私たちが考えるべきことがあります。このような聖句が残っているにもかかわらず、カトリック信者たちは相変わらず聖母マリヤを愛し、尊重し、栄光の母として奉っています。

食口の皆さん! 私たちは、真のお父様が真のお母様をお叱りになる姿を見ることがあります。問題は、そのような状況を見たときに、真のお父様と真のお母様の深い心情を理解しないまま、「真のお父様が真のお母様に対してひどい扱いをされるので、私たちもこれからは真のお母様に従っていく必要はない」と思ってしまう人がいるかもしれないということです。

それは、正しい信仰者の態度ではありません。私たちは、そのような状況と遭遇した場合にも、真のお母様の深い心情世界を理解し、慰めてさしあげなければなりません。カトリック信者たちが聖母マリヤを変わらない心で愛しているように、完成したエバであり、真のお父様と絶対的に一つになられた真のお母様に対して、信仰的基準を失ってはいけません。

真のお父様は、とても緊迫した、切実な心をもって摂理を導いていらっしゃいます。時には、み旨どおりに摂理が進んでいかないとき、叱られたりもされます。それは実は、リーダーと食口たちが責任を果たすことができなかったためなのです。叱られなければならないのは子女たちであるのに、真のお母様は、子女である私たちが傷つくことを願っていらっしゃらないので、真のお父様の怒りと私たちの間に立たれて、執り成しをしていらっしゃるのです。

私は、そのような場面を何度も見てきました。責任を果たせなかったリーダーや子女たちが申し訳ない心で、真のお父様の前にどうしても出ていくことができないとき、真のお母様が間に立たれ、赦しを求められる姿をよく見てきました。真のお母様が私たちのためにどのような役割をされていらっしゃるのか、私たちを守るためにどれだけ犠牲になっていらっしゃるのか、霊的な目で見つめなければなりません。

他と比べられない真のお母様の価値 
ある日、真のお母様が私の部屋へ来られて、涙を流されながらこのように言われました。
「あなたが成長していくとき、いつも傍らにいてあげられなくてごめんね。ほかのお母さんたちのように面倒を見てあげられなくて申し訳なかったね」。

真のお母様がどのような犠牲の道を歩んでこられたのかを知っているので、私はこのように答えました。
「お母様! もう二度とそのようなことは言わないでください。お母様は私たちを守ってくださいました。愚かで何も分からなかったとき、お母様に対して不平不満を言ったことをお赦しください。分別のない心で、自分たちが経験している痛みと苦しみが大きいと感じてしまいました。私たちこそ親不孝者です。お母様がどのような役割をしてこられたのかを理解できなかったのです。お母様は、サタンの攻撃からお父様を守るために犠牲になってこられました」。

サタンと悪なる霊人たちは、真のお父様が歩まれる道を塞ぐために、絶えず真のお父様を攻撃してきました。多くの女性たちを送り、真のお父様と真のお母様の関係を断ち切ろうと攻撃してきました。しかし、神様に向かわれる真のお父様の信仰と真のお母様の愛は、あまりにも大きく、絶対的でした。真の愛で真の父母様は、常にサタンの誘惑と攻撃に勝利されました。

食口の皆様! 真のお母様は聖婚されたのち、王妃の立場に立たれたのではなく、僕の僕の立場から真のお父様に侍ってこられました。低い立場から、謙遜な心をもって、真のお父様に侍っている人たちにも対されました。三年間、入り口である玄関から出入りされなかったのです。その後、子女をお生みになったのちも、真のお父様に侍り、同じ家で住むこともできず、食口の家で過ごされました。歴史的背景から起こってくる問題なのですが、たくさんの女性たちが真のお母様に嫉妬しながら、冷たく接してきたのです。真のお母様は、我慢して忍耐されながら、そのような人たちまでも抱いてこられました。母親の心情で勝利されました。

聖婚直後から真のお母様に侍っていた方から、お母様に関する証を聞くようになりました。それは、真のお母様は、女性が遭う全ての歴史的な、霊的、心理的苦痛を経験されたという話でした。真のお母様がどのような道を歩いてこられたのかを知ることで、その方は、私たちと違う目で真のお母様を見つめ、侍ってこられました。真のお母様は真の愛によって、僕の僕の立場から、真のお父様の絶対的な対象の立場まで勝利されました。

ある食口が私に、「真のお父様がお話しされる間、真のお母様が横で座っていてくださればと思います。途中で席を立たれる姿は、あまり見栄えが良くありません」と言われました。それは、真のお母様がどのような歩みをなしてこられたのかを知らないために言う言葉です。真のお母様は聖婚後、今まで五十年間、三百六十五日、二十四時間、始めから終わりまで、休みもなく、ただ愛と献身をもって真のお父様に侍ってこられました。真のお父様の願いに、絶対順従で過ごしてこられました。

また、ある食口は、「真のお父様が主管される訓読会に、一度参加するだけでも大変だ」と言いました。お父様が、あまりにも長くみ言を語られるからです。しかし、真のお母様は五十年もの間、一日も欠かすことなく、訓読会のような歩みをなしてこられました。真のお母様が歩んでこられた人生は、この世の中のいかなるものとも比べられない価値があります。

真のお父様を一番御存じである真のお母様 
三番目の『聖書』のみ言は、「ヨハネによる福音書」第二章一節から九節までです。

「三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、『ぶどう酒がなくなってしまいました』。イエスは母に言われた、『婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません』。母は僕たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』。そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに『かめに水をいっぱい入れなさい』と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。そこで彼らに言われた、『さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい』。すると、彼らは持って行った。料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った」。

イエス様が水をぶどう酒に作り変えた奇跡は、『聖書』に記録されたイエス様の最初の奇跡です。奉読した聖句は、クリスチャンが重点を置いている聖句の一つです。どうしてでしょうか。『聖書』には、イエス様とマリヤが一緒に登場する例え話は数えるほどしかありません。またこの例え話は、とても重要な神学的、象徴的意味をもっているからです。

カナの婚礼式場でぶどう酒がなくなると、マリヤはイエス様にお願いをしました。イエス様は母親であるマリヤに、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と言います。母親に対するこのような態度は、東洋の儒教の伝統と似ている孝の思想があるユダヤ教では、受け入れられないことでした。

しかし、重要なことは、そのようにしたにもかかわらず、マリヤが要請したとおりに水をぶどう酒に変える奇跡を起こされたことです。カトリック神学ではこの事件をおいて、聖母マリヤは主の母親として、私たちが主の前に出ていけるようにされる仲保者の位置に立っているので、聖母マリヤに祈れば、聖母マリヤが私たちのために主にお願いし、それを行うようにされると信じています。このような神学的観点が伝統になり、聖母マリヤに祈る文化ができたのです。

マリヤの母親的な性稟を欽慕し、尊敬する願いが込められているのです。それは事実上、堕落した人類を重生させ得る真のお母様に対する願いです。しかし、私たちが記憶しなければならないことは、イエス様の場合、真の新婦を探し出すことができなかったために、キリスト教においては聖母マリヤに対して懇願していますが、私たち統一家においては、真のお父様の傍らに真のお母様がいらっしゃるということです。

真のお父様を一番御存じである方は、真のお父様の肉身のお母様ではなく、真のお母様なのです。場合によっては、母親には言うに言えない内容があると思います。しかし、妻と完全に一つになったときには、夫は妻に何でも言えます。どんなことでも分かち合えるのです。

真のお母様は聖霊の役事を主管
仏教でも、真のお母様の愛を得たいという望みをもっていることを発見できます。六世紀頃、観音菩薩の伝統がインドから中国に渡ってくるようになります。ところで、観音は梵語で「アヴァローキテーシュヴァラ」です。これは本来、男性の仏像を言います。チベット仏教でも、観音は「ドルジェ・チャン(持金剛)」で知られる男性の仏像です。仏教哲学では、女性は仏像にはなれないのです。女性は、男性に生まれ変わり、修行の道を歩んでこそ仏像になれるのです。

しかし、観音に対する思想が中国に渡っていくと、女性の形に変わっていきました。ある意味においては、これは、あとに来るメシヤのための準備基盤と言えるかもしれません。中国で女性の形象をするようになった観音菩薩は、母親の慈悲と愛として象徴化されました。危険に処した人々、絶望的な状況に処している人々を助けてくれるのです。不当に監獄に閉じ込められた弟子たちを助け出したり、重病で苦しんでいる北斉王朝の皇帝を治癒したりしました。中国の唐・宋時代に、観音菩薩は赤ん坊を抱いている菩薩に形象化されました。子供をもてなかった女性を助け、妊娠できるようにする能力をもった菩薩として認識されるようにもなりました。このような観点でも、私たちをかわいそうに思って、私たちのために聖なる協助をしてくださる真のお母様に対する望みが高まっているのです。

真のお母様は、完成したエバの位置に立っていらっしゃいます。完全な主体であられる真のお父様の完全な対象として、真のお母様は、真のお父様と完全に一つになられ、授受作用されながら、子女たちを重生させ、新しい生命を得られるようにすることができます。真のお母様は、聖霊の役事を主管されるお方として、多くの霊的な役事を起こしてこられました。霊的に食口たちに現れて、癒やしの奇跡、子女を授かる奇跡、危機から生命を救い出す奇跡を起こされます。真のお母様は、愛で私たちを守り、祝福してくださいます。

真のお父様にお会いすれば、申し訳ない心しかありません。最も大きな摂理的な重荷を背負われ、摂理の最前線で御苦労していらっしゃる真のお父様に、私たちのために祈祷してくださるようにお願いすること自体、申し訳なく、恥ずかしい限りです。しかし、依然として私たちには、真の父母様の助けが必要です。そのようなとき、私たちは真のお母様に祈ることができます。

真の家庭の子女たちも、失敗したり、悔い改めたりすることがあるとき、真のお母様を訪ね、告白して、赦しを受けます。真のお母様は、時には叱られたりもされますが、温かい懐で私たちを抱いてくださいます。私たちが心から悔い改めたとき、真のお母様は、私たちを真のお父様のところへ一緒に連れていってくださり、報告して、赦していただけるよう助けてくださいます。何の落ち度もない完璧な人はいません。ですから、私たちには、真のお母様の温かい愛と癒やしが必要です。そのようにして、私たちは過去を清算し、新しく出発できる力と、勇気を得ることができるのです。

真のお母様は、愛と恩寵、忍耐と献身で、私たち子女が真のお父様に向かって、より近くに出ていけるようにしてくださいます。私たちが真のお父様のみ旨に従って活動できるよう助けてくださいます。私たちを癒やし、励ましてくだされば、正しい道を歩むことができるのです。霊的な目を開き、真のお父様と真のお母様を見つめるようにしてください。真の父母様の真の価値を悟り、真の父母様に喜びと光栄をお返しできる皆さんになってくださることを、懇切に祝願いたします。

最後に、真のお父様の『み言選集』第四十一巻(「現在の統一食口」)五五ページに記されているみ言を一緒に訓読して、説教を終えたいと思います。

「再び来られる主はどのようなお方として来られるのでしょうか。男性を代表し、人類歴史の路程にあって、悪なる世界の全てのものを超え、神様が喜ぶことのできる真の息子の資格を備え、この地上に来られるのです。

そのお方がこの地上に来られてしなければならないこととは何かといえば、この地上に来られて最初に国を治め、世界を動かすことではありません。もちろんそれが間接的な目的になるのかもしれませんが、何よりも先にしなければならない直接的な目的とは何かというと、一人の完成した男性として、一人の完成された女性を探し立てるのです。すなわち堕落の因縁を完全に脱ぎ捨てた一人の男性と一人の女性が夫婦の因縁を結び、家庭を成さなければならないのです。

人類始祖が神様を中心として成すべき真の夫婦の因縁を、堕落によって成すことができなかったので、これを成すために六千年の歴史を通過してきました。それで新しい夫婦の因縁を立て、神様を中心とする新しい家庭を出発するために、この地上に再び訪ねて来られるお方が再臨主であり、それが再臨のメシヤであるということを皆さんは知らなければなりません」。

一緒に起立して、真のお父様に向かって祈祷し、真のお母様に向かって祈祷を捧げましょう。


7satusetto.jpg資料提供:光言社
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posted by ffwpu at 11:00| 文亨進様説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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