2012年10月06日

感謝の生活

菊池信一.jpg統一教会
 菊池信一
 <2012 夏季 牧会者説教集  P.145~147>

聖書拝読:ヨブ記38章1節〜39章30節

 当たり前なことは、実は当たり前でないことが多いのです。先日、足を怪我してしまい、今までは当たり前に歩いたり動いたりしていたのに、動くこともできず、服を着ることや車に乗ることなど、普段の生活ができなくなってしまいました。足が不自由なことがこんなにも生活に支障を与えるのかと、健康の有り難さを身にしみて感じています。

 このように当たり前と思っていることが、実は当たり前でないことが多いのです。例えば、空気もそうです。本当に良くできています。もし大気が1気圧より薄いと、少し歩いただけで苦しくなってしまいます。また、酸素ばかりであれば、少しの火を燃やしただけで一気に燃えてしまい、大変なことになります。

 このように、この世界は実によくできています。神様の計り知れない知性と心情と意思が空気一つの中にも動いています。小さな花にしても、そこには無限の神の神秘な知性が宿っており、心情が宿っており、ひたすら生きようとする意志が宿っています。

 ここで、神様のヨブに語り掛けた聖句を紹介します。




「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは、腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。……あなたは海の源に行ったことがあるか……」(ヨブ記38:2〜5、16)

 神は不平に満ちそうになったヨブに、このように語り掛けました。ちょっとした試練にも文句を言い、不平不満に陥る人間の姿、感謝する心を忘れてしまう人間の姿を、この聖句を通して感じ取ることができるのではないでしょうか。

 人間は堕落しなかったならば、ますます万物の中に神の偉大さや知性、心情を発見し、讃美したに違いありません。歩めば歩むほど、神様を発見していくのが人生であったに違いありません。全てが神様の最高傑作品であるからです。ですから、朝に昼に夕に感謝するようになります。堕落したために、世界は罪悪が横行し、真実がなく、愛が冷めて感性が麻痺してしまったのです。

 ヘレン・ケラー女史は目も見えず、耳も聞こえず、言葉も話せない三重苦にありながら、それを乗り越え、大学を首席で卒業し、博士号まで取った偉大な方ですが、心打たれるのは、「もし目が見えたら、美しく沈む夕日を見たい」と言ったことです。彼女がもし、一度でもその夕日を見たら、どれほど涙を流して感動したことでしょうか。私たちは、そのような人に代わって見たことがあるでしょうか。夕日など、さほどの感動もなしに、当たり前のように見ています。

 神様は本来、神様の素晴らしさを心の底から発見し、悟って、感謝を返してくれる人間の姿を見たかったに違いありません。たとえ貧しくとも感謝してくれる子供がいたなら、親としてどんなにうれしかったかというのです。神様は忍耐し続けておられます。み言を聞いた我々こそが、誰も感謝することができなかった人生に、逆に感謝の声を捧げていきましょう。

 ところで、罪について考えてみたときに、人間に心と体があるように、罪が成立するにおいても不平不満という内的心情と、具体的な犯罪行為という外的行動があって、初めてそれが成立します。カインはアベルに対して憤ったとありますが、それ自体は罪ではなく、罪が門口で待ち伏せしていたのです。結局、具体的にアベルを殺害することにより、それが罪となったのです。

 蕩減条件とは、逆に、内的条件としての感謝の心と、具体的に外的行為としての奉仕、犠牲です。ですから、お父様はいつも、感謝の心を持ちながら苦労せよと指導されるのです。また、不平不満の心情でみ旨のためにいくら苦労しても、条件にはならないのです。単に、徒労にすぎません。我々も不平不満の心で苦労していると、いつかはサタンになります。お父様も、いつも心配されるのは、食口が感謝しているのかということです。

 では、心で感謝し、体で苦労するとどうなるかといえば、神様の心情が分かり、み言と人格と心情の実体となっていくのです。これこそが神の実体対象なのです。正に、その道を歩んでこられたのが真の父母様であり、その道を相続していくのが氏族的メシヤとしての私たちの立場だということを肝に銘じ、日々感謝の生活を捧げていきましょう。


posted by ffwpu at 09:40| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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