2012年08月04日

礼拝

後藤弘.jpg統一教会
 後藤弘
 <2011 夏季 牧会者説教集 P.112~116>

訓読:『天聖経』「礼節と儀式」─礼拝は神様に最高の敬意を表す儀式─
 「礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に贖罪しなければなりません。ゆえに礼拝の時間は、自由のない時間です」

 「礼拝時間は押し寄せるいかなるサタンの権限も防ぎ止め、父の前に勝利の栄光をお返しすることを約束する時間です」

 「礼拝を捧げる時間は、怨讐と一騎打ちをするよりも深刻な時です」

 「礼拝の時間に早く来た分は、神様のために捧げた時間となりますから、千金、万金を出しても買うことができない価値があります。礼拝の時間は神様に捧げる時間であるために、その時間に遅れることは神様から盗みをすることと同じです。

 礼拝には決められた時間に来なければなりません。そうすることによって、それだけ神様の前に面目を立てることができます。

 そうなれば、きのうよりも良い心をもって天の前に近づくことができますが、遅れて来て、祈祷するときも目をぱちくりさせながら、『先生はきょう、どんなみ言を語られるか』と座っている姿を見ると、惨めで仕方がありません」

 「神様の前に出て侍る場に、礼服を着ないで参席できるでしょうか。目に見える礼服ではありません。心情の礼服です。

 このように集まった皆さんのその心から、み言とともに賛美ととも礼拝に感激した心情が流れ出てきたならば、天は皆さんを通して役事されます。

 堕落した人間がエデンの園から追放されたとき、涙を流しながら追われましたが、皆さんは涙を流すとしても、喜びの涙を流しながら、笑い顔で神様に会わなければなりません。悲しみの涙も流したことのない者が、喜びの涙を先に流してはなりません」



 きょうの説教の題目は「礼拝」です。礼拝は一週間の初めに行います。キリスト教は、この日曜日を「主の日」として定めました。宗教によって違います。イスラームは金曜日であり、ユダヤ教は土曜日、キリスト教は日曜日です。統一教会には安侍日がありますが、日曜日に礼拝を捧げています。


 この「主の日」とは何の日でしょうか。キリスト教では、イエス様が復活した日が日曜日です。一般的に、13日の金曜日に亡くなったと考えられ、その日を一日と考えて金、土、日で、3日目の日曜日に復活されました。それで日曜日が「主の日」として定められました。ですからキリスト教では、日曜日が、イエス様に出会う日、主に出会う日として礼拝をする日として定められました。

 神様が創造された目的は何であったでしょうか。アダムとエバを造り、彼らが完成して夫婦となり、さらに子女を生んで真の父母になったならば、真の父母の心の中に永遠に住みたかった神様であったというのです。アダムとエバを造って真の父母にし、真の父母の心の中に親として永遠に住みながら、神の子を生み増やし、人類の親としてありたかったわけです。もっと言うならば、アダムとエバを通して四大心情圏、四大愛を完成したかった神様であったというのです。

 神様の願いは何かというと、愛の完成です。神様が手に入らないものがただ一つあったのです。それが愛でした。神様が欲しかったのは愛なのです。その愛も、自己満足的な愛ではなくて、愛し愛されるという愛が欲しかったというのです。相対が欲しかったということです。それも漠然とした思いではなくて、実体的な感覚を持った愛、実体圏の愛が欲しいのです。私たち人間も、心だけで愛されているというよりも、実際に、何かすてきなプレゼントをもらうとか、実体的に愛されたという思いがないと、その愛が増えていきません。心が大きくなっていかないのです。ですから神様も実体が欲しかったのです。

 そして神様は男性格主体ですから、当然、男性アダムという立場に立って相対が欲しかったので、エバを造られたのです。

 アダムのあばら骨で造ったということは、アダムの要素と同じ要素でエバを造ったということです。そして神様が最も苦労して造ったところがどこかというと、生殖器であったというのです。ですから生殖器が愛の本宮であり、命の本宮であり、血統の本宮であるというのです。男性の生殖器も大事ですが、女性の生殖器がとても大事だったというのです。神社の造りも女性の子宮をかたどっていると言われています。すべての天運の要素がどこにあるかというと、女性の生殖器にあるというのです。善悪を知る木の実を取って食べてはいけないと神様が言われたのは、そこを汚してはいけないということです。そこが神様にとって重要なポイントであったので、取って食べてはいけないという戒めがあったのです。

 真のお父様が夜も昼もなく生活をしながら、何を願っていらっしゃるのかというと、純潔です。それが大事であるというのです。ですからお父様ご自身も生涯の中で、それを守るために大変な道を来られたということです。お母様も、その道を行くために大変な道を来られたのです。ありとあらゆる試練があったのです。それを乗り越えられ、勝利されたのです。

 今、私たちはこの礼拝で何を拝んでいるのでしょうか。目に見えない神様が目に見える形で現れたのが真の父母様ですから、真の父母様に実体で侍ることが、実は礼拝なのです。実体で侍ることが礼拝です。

 今私たちは、復帰摂理歴史で言えば、第3次天宙的実体的カナン復帰路程の最終段階に来ています。天一国を創建する実体的な路程を歩んでいるわけです。目に見えない神様が目に見える形で現れた真の父母様を信じ、拝し、そしてその生き様を受け継ぎながら歩んでいるのです。相続するのです。相続するための儀式が、実は訓読であり、礼拝なのです。

 真の父母様を知的に理解するのがみ言の訓読です。み言を訓読しながら生活することです。真の父母様を心霊的に理解するために祈りと礼拝を捧げるのです。この礼拝の時間というのは本来、霊的に真の父母様に会う時間なのです。そして真の父母様と共に過ごす時間です。ですから、とても聖なる時間です。その聖なる時間、父母様に会いに行く時間として、真心を込めて礼拝に参加することが大事です。

 私たちは旧約時代、新約時代の上にある成約時代の信仰を持っています。したがって、服装や姿勢なども精誠を込めなければなりません。礼拝を貴重視した時に心情が変わっていきます。

 そして教会という場所は、氏族レベルの場所です。ですからここに集まった人たちは真の親を同じくする兄弟姉妹です。同じ血筋の人たちが集まって、真の親と過ごすのが礼拝です。ですからこの時間がとても貴重です。霊界に行けば、このような時間しかないとも言えます。ですから礼拝とは、自らを祭物として供え、一週間の初めの貴重な朝に、神様を中心として、父母様を中心として一つになっていく場なのです。ですから、この時間が貴重なのです。家で礼拝していますよというのとは次元が違います。家庭の次元ではない、氏族次元、国家、民族レベルに達していく私たちになっていかなければならないということです。今後、心の礼服を着て正して生活していけば、たくさんの天福が与えられるのです。

 最後に、自叙伝『平和を愛する世界人として』よりお父様の礼拝参加の姿勢についてのみ言を紹介します。

 「私が10歳の頃、牧師である潤ユン國グㇰ大叔父の影響で、私たち一家は全員キリスト教に改宗しました。次姉と兄の精神的な病が按手祈祷を通して治癒したことから猫頭(ミョドゥ)山のふもとにある徳興(トㇰフン)長老教会に入教し、熱心に信仰生活をしたのです。その時から、私は真面目に教会に通って、礼拝を一度も欠かしませんでした。礼拝時間に少しでも遅れると、あまりにも恥ずかしくて顔を上げることができませんでした。まだ子供なのに何を思ってそうしたかというと、私の心の中には、その時すでに神の存在がとても大きな位置を占めていたのです。そして、生と死や人生の苦しみと悲しみについて、深刻に悩む時間が増えていきました」(『平和を愛する世界人として』p.58〜59)


posted by ffwpu at 11:00| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。