2011年07月09日

統一教会の紹介と祝福結婚について

五十嵐政彦

統一教会
 五十嵐政彦
 <原理復興会講話集2 P40〜53>




 本日は「統一教会の紹介と祝福結婚について」と題してお話ししたいと思います。

 統一教会は正式名称を「世界基督教統一神霊協会」と言い、韓国においては1954年に創立されました。今年で創立57周年になります。そして日本においては1964年に宗教法人として認可を受けています。そこから数えれば47年になりますが、初めて礼拝を行ってから数えて今年で52周年となります。教会本部は東京・渋谷にあり、北海道から沖縄まで、主要な都市すべてに教会があります。世界においては194か国に拠点をおいて活動しています。

 現在に至るまでさまざまな活動を行っていますが、宗教の一致・和合・統一、青少年教育、文化・芸術・スポーツ、そして地球環境・食糧問題への取り組みなど、さまざまな活動を世界中で行っています。

 「世界基督教統一神霊協会」の活動の目的は、小さな単位で言えば個人や家庭の幸福であり、大きな単位で言えば国と世界の平和ということになります。

 国は「人」が集まって構成されています。そして、その国のさまざまなシステムを検討し決定するのは、政治家という「人」です。ですから、その「人」によって良いシステムができるか、悪いシステムができるかが決まってしまいます。では、国が悪いのは政治家が悪いのかと言えば、その政治家を選ぶのは国民という、やはり「人」ですから、政治家だけが悪いと決めつけることもできないと思います。

 そのように、その国を構成する「人」、そして人が複数集まる一番小さい単位である「家庭」、これが良くならなければ、その国は良くならない。このように考えます。

 それで統一教会においては、先ほどご紹介しましたように、国や世界も考えていくのですが、まずこの一人の「人」、そして「家庭」が、どのようにしたら永遠の幸福に至ることができるかというところから考えていくわけです。


 さて、これからは少し宗教的な話になります。話を聞いていただいて、皆さんがこれからさらに幸福な人生を送っていただくための一助になればと思います。

 どのようにして幸福な人生を送るかということですが、私たちはこのように考えます。

 この世界や、私たち「人間」が、一般に言われる進化論のように偶然にできたものなら、これから私たちが幸福になれるかどうかも、究極的には「偶然」に任せるしかないということになります。

 統一教会では「人間」も「この世界」も、偶然に、自然にできたのではなく、「ある存在」によって創られた、創造された、と考えます。この「ある存在」のことを宗教的に言いますと、「神様」ということになり、哲学的には「第一原因」と言ったりしますが、とにかく「人間」も「世界」も偶然にできたのではないと考えるわけです。

 例えば、進化論においては人も動物も環境の変化によって自然に進化したと言います。進化と言えば、より高度な状態になることを言いますが、例えば世の中に何の法則性もなく、力が加えられず、ほうっておいて、ただ自然に、より高度な形状に変化するということがあるでしょうか。

 より高度な形に変化するには、そこに必ず「変化させるぞ」という意思があって、そして変化させるように「力」を加えなければ絶対に変化は起こりません。何かが作られるには、作る側の「作る」という意思があって、そして作るという「力」が加わって、それで作られるわけです。

 例えば卵を使って目玉焼きを作るには、その目玉焼きを作りたい「人」が「目玉焼きを作るぞ」という「意志」を持って、そして目玉焼きを作るという作業、つまり「力」を加えなければ絶対にできません。そこには人間という存在の「意志」と「力」があるわけです。

 現代においては、科学が進んで、人間はさまざまな物を作りだします。例えばこの携帯電話、何年か前はもっと大きかったですし性能も低かったです。今は誰でも持っています。この携帯電話を作るのに、まず制作者の強い信念があったでしょう。「電話を外に持ち歩けたら、どれほど便利だろうか。そういう物を作ってみたい」という開発者の夢と信念、強烈な思いがあって、そして研究して実験して、その上で設計図ができて、それで具体的な作業が始まって……。そうやってできるわけです。

 さて、それではこの携帯電話と私たち人間と、どちらがより高度な存在でしょうか。それは人間に決まっています。科学技術の進歩によってあらゆる物が作られるようになりましたが、人間をつくることはできません。人間は、それほど高度な存在ということが言えるでしょう。

 それでは、人間よりレベルが低い携帯電話でも、人が強い意志を持って力を投入して……。つまり偶然に、自然にできるわけがないのに、より高度な存在である人間が偶然に自然にできたと考えるのは理論的でしょうか。それは理論的ではありません。そこに何かの意思が存在し、「力」が加えられたと考えるのが、科学的であり理論的です。

 もし人間が何千年も何万年も昔、原始人のような姿から徐々に現代の人間の姿に変化したとしても、また、そのような証拠になるような骨や科学的根拠がたとえ発見されたとしても、そのようになった背景には何らかの意思があって、そして「力」が加えられなければ、より高度に変化しないということです。

 このような「意志」を持ち「力」を加える存在、これを宗教的には「神様」と表現します。

 アメリカにグランドキャニオンという大渓谷がありますが、そこに行くと神様を感じるそうです。また多くの宇宙飛行士が宇宙船の窓から宇宙空間を見て、そこに浮かぶ地球を見ると、何か大きな存在に包まれているような、抱かれているような、不思議な感覚になるそうです。やはり神様を感じるそうです。アポロに乗った宇宙飛行士が、そのような体験をして地球に帰ってから宗教者になったという話を聞きます。

 通常、私たちの身の回りには、人間が作った物ばかりがあります。私たちは人間が作った物に囲まれて生きています。しかしグランドキャニオンのような、回りすべてが大自然、人間の入る余地のない大自然の中に立ったとき、また宇宙空間に人間が作った物など何一つ見えませんから、つまり神様が直接創造した大自然や宇宙空間に立ったとき、その人の感性が、何かより大きな存在、神様を感じるのだと思います。

 さて、いろいろな話をしましたが、統一教会では神様が存在し、その神様がすべての環境、そして人間も創造されたと考えます。そして、そのような人間やすべての環境を創られた神様が存在するということになれば、私たち人間が幸福になる道を探す大きな手掛かりができたということになります。

 例えばこの時計ですが、この時計自体は自分が何のために作られたかを知りません。誰が知っているかと言えば、これを作った人です。

 時計が存在する目的は、時計自体にあるのではなく、これを作った人にあるということです。「いつでも正確な時間を知りたい」という目的は人間にあって、その目的のために時計は作られたということです。そうなると、この時計は一生懸命正確な時を刻み、それを人に知らせるというのが、この時計の意義ある「人生」だということになるわけです。

 それと同じように、もし人間や世界を創られた神様がいらっしゃるなら、人間がどのようにしたら幸福になるかということは、人間や世界を創られた神様に答えがあるということです。その神様がどのような存在なのか、どのような目的で人間を創られたのか、また人間との関係は何かということを考えることによって、答えが見えてくるということです。

 ここからは人間と神様の関係について考えてみたいと思います。私たちは「世界基督教統一神霊協会」、キリスト教ですので、少しだけ聖書を引用したいと思います。

 聖書は旧約聖書(イエス様が地上に生まれる前)と新約聖書(イエス様が生まれた以後)がありますが、宗教書であり、歴史書とも言えるでしょう。

 旧約聖書の初めに天地創造、天地がどのように創られたかという記述があります。きょうは時間がないので、結論的に話を進めます。神様がこの世界を創造された順番が書いてあります。その順番は、最初に光、次に空と海、次に陸と植物、次に昼と夜、次に魚と鳥、次に地の獣、そして最後に人間、このような順番です。

 この順番を見ると、光や空気、空や海や陸、そのような環境を創られて、そして植物や動物や食べる物を創られて、最後に人間を創られたということになります。

 人間が生きやすい、生活しやすい環境をすべて創られてから、最後に人間を創られたということになります。宇宙空間にいきなり人間を創ったら、生まれた瞬間に死んでしまいますから、当然と言えば当然ですが、本当に絶妙な順番に創ったと言えます。偶然にそうなったとは考え難いものがあります。

 これが、神様がこの世界を創造された順番ですが、この順番は実は私たちもよく知っている、誰もが体験して知っている関係性を示しています。最後に生み出す人間がよく生きることができるように、先にすべての環境を整えておく、そして最後に人間を生みだす。これは親子の関係です。

 お父さんとお母さんは、子供が生まれる前に、生まれたらその子供がよく育つことができるように、すべての準備をして生まれるのを待ちます。ミルクやおしめや服、ベッドや玩具まで準備します。部屋も危なくないように整理して、環境をすべて準備します。ベッドも生まれる子供のため、服も生まれる子供のため、玩具も生まれる子供のためです。

 同じように、空も人間のため、陸も人間のため、植物ものちに生まれる人間が食べることができるように、それで住む家を造ることができるように……。動物も人間のためです。すべて最後に生み出す人間のために創っておいたのです。これは親子の関係です。ですから私たちは、神様と人間は親子の関係であると考えるわけです。

 人間がどのように生きたらよいのか、どのように生きたら、より良い意義ある人生を送ることができるのかということを、親子の関係から考えることができます。

 神様と人間は親と子の関係ですから、人間の親が子供に対して、どのような願いを持っているのかを考えれば、神様が人間をどのような目的で創られたのか、どのように生きてほしいと考えていらっしゃるかを考えることができます。

 神様が親で人間が子供なのですから、親が子供に願うことと同じではないかということです。すべての親が共通して子供に願うこと、このような観点で考えればよいと思います。

 すべての親はまず、子供がこの世に生まれる前までは「五体満足」を願いますが、生まれてからは健康であることも願います。そして子供の成長とともに、肉体的な健康だけでなく、人格的なことまでも願うようになります。

 優しい子供になってほしい、思いやりがある子供になってほしい、誠実な、まじめな、明るい……。これらすべては性格で、心の状態です。簡単に言えば、「立派になってほしい」ということでしょうか。これはどの親でも共通して子供に願うことです。

 立派になったら、次に親が共通して願うのは、「そろそろ良い人はいないか」。つまり幸せな結婚を願います。結婚したら、さらに、「そろそろ孫の顔を見たい」。これも共通しています。「幸福な家庭を築いてほしい」ということでしょうか。

 そして、その上で「最近、会社では上手くいっているのか。仕事はどうか」。よく生活できているのかということです。これも共通していると思います。「豊かな暮らしをしてほしい」ということでしょう。

 どんな親でも共通して子供に願うこと、これをまとめてみましょう。神様が親の立場で人間が子供の立場であれば、神様も人間に対して同じような思いを持って創造されたのではないでしょうか。これを神様の三大祝福と言います。

 まず第一祝福、次に第二祝福、そして第三祝福。このようになります。これが神様がすべての世界を創造され、人間を創造された動機であり、目的であったということです。このような個人、このような家庭、このような社会であったら、すべてが幸福でしょう。このような個人になって、このような家庭になって、このような社会をつくる。これが親としての神様が私たち人間に対して願われることであり、このようになれば、個人から世界まで、すべて幸福であるということになります。

 しかし、既に皆さんも感じておられるように、実際は、この理想のようにはなっていません。理想としては理解することができますが、それは理想でしかないというのです。もちろん現実がどうであれ、理想を掲げて、理想に向かって行くことに意義がありますし、そうしなければ何も変わらないのですが、それでも現実は全くこのようにはなっていません。

 ここで考えなければならないのは、人間は最初から今の現実のように、つまり理想はこうだけれども、理想のようにはできない存在として最初から創られていたと考えるか、それとも、最初は理想どおりの個人となり、家庭を築き、さらに世界をつくることができるように創造されたけれども、何かがあって、今のような状態になってしまったと考えるかということです。

 もし最初から幸福になれない存在として創造されていたのなら、これ以上考えることは無駄になります。しかし神様と人間が親子の関係なら、親が最初から子供に対して「どうせ幸福にはなれないけれど」という思いでは生みませんから、それは考えられないことです。

 しかし、神様は親だから最初から私たちが幸福になれないように創造したはずはないけれども、現実は限りなく幸福を求めづらい状況になっています。

 ということは、最初は幸福になれるように創造したのに、その後、何かがあって、こうなってしまった。人類歴史のどこかで、人間が幸福になることを難しくさせる、何かの原因となる出来事があって、それからこのようになったと考えるわけです。

 それでは歴史を調べてみましょう。

 先ほど紹介したような三大祝福のように、人間が幸福に生きていた時代を探せばよいわけです。そうすれば、そうでなくなった分岐点を探すことができるわけです。ところが歴史をどこまでさかのぼっても、戦争をしていない時がありません。いつでも国と国、民族と民族、人と人が争っているわけです。ということは、やはり神様は最初から、そのように創られたのか。しかし、それはあり得ないことです。

 ということになると、結論は一つです。それは、神様は人間が幸福になれるように創造されたけれども、創造した直後に、何かがあったということです。結論として、統一教会では、そのように考えます。

 あとから何かがあって、今のような状態になってしまったのなら、それが何なのかを探し出して、それを克服していけば、幸福に近づくことができるということになります。

 では、そのように考えることができる資料があるでしょうか。これが不思議なことに、世界のさまざまな神話、太初についての物語には、共通して、人間が神様から創造されてすぐに失敗する話が出てくるのです。

 日本の『古事記』にはイザナギとイザナミ、男の神様と女の神様が出てきます。そして男から声を掛けなければならなかったのに、女から声を掛けてしまった、それが失敗だったと。また、ギリシャ神話では、パンドラという女が、開けてはいけない箱を開けたことによって悪が世界に広がったとあります。そして聖書には有名な失楽園の話があります。最初の男性と女性、アダムとエバが食べてはいけない木の実を食べて……。このような失敗から人類の歴史が始まっています。

 さて世界のさまざまな神話や宗教書に、共通して最初の人間の失敗が記されていて、そこから人類歴史が始まっているということになると、そこに何かがあるということになります。

 ここでは聖書の内容から、それをお話ししたいと思いますが、きょうは簡単に話します。

 聖書には、最初の男性アダムと最初の女性エバがエデンの園という所で暮らしていたとあります。そのアダムとエバに対して、神様が戒めを与えられます。それは、「エデンの園にある、どの木の実を取って食べてもよいが、園の中央にある命の木の実だけは取って食べてはならない。それを食べると死ぬだろう」という内容です。

 さて、そのような神様の戒めがあったのですが、そこに蛇が出て来てエバに、「神様はそう言っていますけれど、その実を取って食べて死ぬことはないでしょう」と言いながら誘惑してきたと書いてあります。そして結果的には、エバはその実を取って食べ、さらにエバがアダムにも与え、アダムも食べてしまったという内容です。二人とも、その実を食べると突然、目が開け、裸でいるのが恥ずかしくなって無花果の葉で腰を覆ったとあり、その後、二人はエデンの園から追い出されるようになります。これをキリスト教では人類の堕落と言っています。

 さて一般のキリスト教の多くは、この内容のとおりの出来事が起きたと考えている人たちもいますが、現実的には、人が何か食べることによって不幸が始まったというのは考え難いことです。

 それで統一教会においては、聖書の他の箇所にも比喩や例えで表現されている所が多いことから、この部分も例え話であり、実際は何かを食べたのではく、もっと不幸に直結する具体的な出来事があったと考えます。

 その内容は、こうです。神様を親とすれば、アダムはその息子、エバはその婚約者と考えられます。そして蛇というのは天使で、神様を中心とする家庭の使用人です。そして神様の戒めの意味は、アダムとエバは結婚の時まで取って食べてはならない、つまり「結婚までは純潔を守りなさい」ということです。

 しかし蛇が誘惑してエバが食べました。これはエバが使用人に誘惑されて性的関係を結んでしまったということです。その後、さらにエバがアダムと性的関係を結んでしまった、と考えます。そして、このアダムとエバの子供であるカインとアベル、これは兄弟ですが、兄のカインが弟のアベルを殺してしまいます。人類最初の殺人が、最初の家庭で起こったのです。

 つまり人類始祖アダムとエバは、木の実を食べたのではなく、人類の最初の家庭で淫行の問題が起こり、夫婦問題であり、家庭問題であったということです。

 信じ難いかもしれませんが、詳しく聖書を調べると、すべて出てきます。

 きょうは簡単な内容で申し訳ありませんが、詳しく説明できる機会があれば幸いです。ただ現代の現象として、淫乱の問題、そして家庭崩壊が深刻です。大きな会社でも、中心に立つ者の女性問題でおかしくなることが多々ありますし、一つの国家でも、この男女問題から一瞬にして崩れてしまうことは歴史にも出てきます。人間社会の現象から、あり得ない話ではないことが理解いただけると思います。少なくとも、何かを食べることによって不幸になったという話よりははるかに現実的な内容だと思います。

 人類最初の家庭において不倫のような出来事、つまり許嫁が結婚前に使用人と不倫のような関係を結び、その後で結局、結婚したという内容です。そのような関係で始まった夫婦がうまくいくはずもなく、子供ができても、毎日夫婦げんかをしていたかもしれません。結局、その子供たちの、兄が弟を殺してしまうわけです。夫婦が普通に仲が良ければ、子供たちの様子を見れば、「何かおかしい」と分かるはずであり、夫婦がよく話し合っていれば、兄が弟を殺すところまではいかないようにできるはずです。それが殺すところまで行ってしまったということは、よほど夫婦仲が悪かったということになります。そして、その原因は結婚段階にあったということにあります。つまり正しい結婚でなかったということです。

 神様は親として人類が幸福になれるように創造されました。幸福を完成できるように戒めも与えられました。しかし結果として、人類歴史における最初の家庭が、このような悲惨な家庭崩壊のような家庭となってしまったのです。不倫もあり、殺人もありと、大変な家庭であったということになるわけですが、問題は、私たちはその後孫として生まれて生きているということです。

 そのような間違った結婚、間違った夫婦関係、間違った親子関係、間違った兄弟関係の血統を受けついで、私たちが今存在するということになると、私たちが理想を掲げながらも、そのようになれないという意味が分かります。

 今、世の中の多くの家庭が抱えている問題が、実は最初の家庭にあったということです。また、その家庭を拡大したのが世界であると考えれば、国と国が兄弟として助け合えばよいわけですが、みな自国の利益ばかり考えて争うようになってしまっているのです。最初の兄弟が争ったわけですから、それも理解できます。

 さて物事は原因を解決しなければ、本当の解決にはなりません。原因は結婚問題(血統問題)であり、また家庭問題であり、そこからすべてが始まっています。神様がいらっしゃるべき所に神様ではなく、別の者が入ってしまったのです。神様、善の主体ではなくて、キリスト教ではサタンと呼びますが、悪の主体が入ってしまったということです。

 人間の心と体、家庭の夫と妻と子供、社会の人と人……、すべて形は同じですが、何を中心とするのか、これが全く違ってしまったわけです。これをもう一度、神様を中心とした形に戻さなければならないということです。そして、その中心に結婚問題があるということです。もう一度、神様を中心として結婚し直さなければならないということです。しかし、ただ勝手にすることはできません。すべての人類が、このような間違った家庭から生まれてきているわけですが、その中でも神様の血統に生まれ、神様を中心として結婚し、家庭を完成させた、そのような方が現れ、そのような方を中心として行われる結婚でなければならないわけです。
 
 キリスト教ではメシヤ、また救世主と言いますが、2000年前に生まれたイエス様がその立場の方でした。しかし、多くの不理解と迫害の中で、結婚することもできず、十字架にかけられて殺されてしまいました。そこに行きつくまでにもたくさんの歴史があり、その歴史を導く神様がいらっしゃったわけですが、きょうは時間がないので詳しく話すことができません。

 そのイエス様からさらに2000年を過ぎた現代、イエス様が成すことがでなかった、そのすべてを行い、私たちを永遠の幸福へと導いてくださる再臨の主、勝利された真の父母、その方が文鮮明・韓鶴子ご夫妻なのです。

 世界基督教統一神霊協会においては、きょう皆さんに説明したような観点で、個人や家庭の幸福、そして社会、国家、世界の平和を取り戻すために、その不幸の原因が最初の男女の結婚であったので、もう一度、神様を中心とした結婚をして、個人も家庭も再出発する、そして、その輪を社会や国家・世界に広げていこうという観点で、そういう意味での結婚式を行っています。これを祝福結婚式と言います。

 1960年に最初の3家庭、そして1961年に33家庭、1962年に72家庭、その後124家庭、430家庭、777家庭、1800家庭、6000家庭、6500家庭、3万家庭、36万家庭、4000万家庭と行っています。

 この祝福結婚式の行事は二つに分けて行います。最初に、夫婦がこれまでの結婚生活において十分でなかった内容があれば、互いに反省し、またこれまでの夫婦生活を互いに感謝しながら、もう一度神様を中心として向き合い、愛し合う、そして神様の愛と生命と血統を相続する、そういう意味での儀式を行います。これを聖酒式と言います。

 その上で、神様から祝祷を頂き、神様を中心とした夫婦として新しく出発します。これを祝福式と言います。このように二つの行事に分けて行います。

 既に結婚しているのに、また結婚式を行うのは不思議な気持ちがするかもしれませんが、これまでの結婚生活においてさまざまなことがあったかもしれないけれど、もう一度、神様を中心に愛し合っていきましょう、再出発しましょうということです。

 実は、本日お話しした内容を深く理解していただくためには一週間くらい時間が必要なのですが、それをごく短くして45分くらいにして、お話ししたことを理解してください。ですから、目次のような内容です。十分でない説明ではありますが、それでも骨子を理解していただき、この運動に同参していただければ幸いです。

 本日も、この祝福結婚式の最初の行事である聖酒式を行う準備をしていますので、ぜひ参加してください。

 またの機会に、もう少し詳しくお話しできる機会が訪れることを希望しながら、そして皆さんと皆さんの家庭に、神様の永遠なる祝福があることをお祈りしながら、本日の私の話を終わりたいと思います。


posted by ffwpu at 13:57| 統一教会牧会者説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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