和田貢一郎
<2009春季 牧会者説教集 P26〜33>
尊敬する食口(シック:同じ食事を口にする者、家族の意)の皆様、おはようございます。本日は、「愛されるべきものの行くべき道」というタイトルで、説教を担当させていただきます。
1984 年に興進(フンジン)様が昇華され、その後、地上に再臨協助され、日本を巡回されながら聖地を決められた時の話ですが、その時、興進様が日本で、最も長い祈祷とたくさん涙を流した所が、広島の江田島海軍兵学校であったと聞きました。
そこには、第二次大戦中、若くして国のために戦場に散った若者たちの遺書があり、慰霊碑があります。今も海上自衛隊の学校です。特攻兵たちの遺書を見れば、若者たちは何よりも国を愛し、家族を愛していました。その心情に触れれば、ただただ涙です。
興進様は慰霊碑の前で祈祷されたそうです。その祈祷は、20 分から30 分の間、大きな声で涙を流しながらの祈祷であったと聞きました。
真のお父様は、「日本の情 忠孝の源」という揮毫を日本に下さいました。その精神をここで見ることができます。戦争というのは人と人が殺し合うものですが、その心情と国を思う気持ちは天が取るものです。
そのような意味において、きょうお話しさせていただく内容は、戦争の話ではなく、「日本の情 忠孝の源」のみ言があるように、心情の世界を中心にお話しさせていただきます。
山口県に徳山という町があります。そこからフェリーで30分から40 分の所に大津島という島があります。私は青年時代に行き、大きな衝撃と感動を受け、そして人生観が変わるほどの出来事がありました。
この大津島は、回天特攻隊という特攻兵たちを訓練する場であり基地でした。今もそのままの状態で残っている所です。その当時、日本は追い込まれ、常識では考えることのできない「人間魚雷」を造りました。14.7 メートルある魚雷に火薬を積み、人間が乗って、敵艦に突っ込むという兵器です。発射されたら敵艦にぶつかるだけです。成功率は低く、途中で撃沈されたり、敵艦に到達できずに無駄死にすることもあるというものでした。あまりにも悲惨な武器です。私の記憶が正しければ、戦時中、平均年齢18 歳と数か月の若者254 名が太平洋の海に散ったとのことです。
そこに小さな資料館があります。資料館の前に慰霊碑があって魚雷がそのまま置いてあり、亡くなった方の名前が刻まれていました。前もっては何も聞いていませんでしたが、その敷地に入った瞬間、不思議に涙がこぼれて仕方がありませんでした。心の底から込み上げてくるものがありました。
そんな中で、迎えてくださったのが70 歳くらいの館長さんでした。館長さんは、その当時の指揮官でした。その当時、若者たちを直接教育し、共に暮らし、生き様を見て、自らが命令し戦場に送られた方です。送る順番まで決めた方でした。その方のお話に心から感動しました。
館長は初めにこのように言われました。「若い方々、本当によく来てくださいました。私は戦争の話をしたいのではなく、当時の若者たちの真の姿、国と家族を愛する、その生き様を知ってほしいのです。特に女性、お母さん方にお伝えしたい!……こんなとんでもない武器を造って……」と涙を流しながら話してくださいました。
最初に話されたのが、仁科関夫さんという方についてでした。当時23 歳。この方が、いちばん最初に敵艦にぶつかって殉死した人です。メンバーの中で最高年齢でした。若者たちが全国津々浦々から集められましたが、仁科さんは大阪出身で、今も有名校である高校を3 年間トップで卒業した人です。素晴らしく優秀な方です。また剣道の達人でもありました。今、その人が生きていれば日本は変わっただろうというくらいの人です。
その人が自ら志願して行ったのです。「自分が石垣となって、日本は立派になるのです。自分たちの死は決して無駄ではありません」。そういうことを書き留めていかれました。
その仁科さんに、お父さんは、「人生は公人であろうと私人であろうと、ただ敬神を第一とし、誠心をもって神に対し、人に対し、事に対し、遠謀深慮のもとに最善を尽くし、自己を大ならしめるこ
とです。神は己を大ならしむべく努力するものを助け、確固たる意志に道を与えるものと信じます」という手紙を送っています。
仁科さんについては、最後にもう一度お話したいと思います。
2 番目に亡くなった方は唯一、結婚して間もない人でした。奥様がいたのに志願したのです。同僚は「ばかもの」と「なぜおまえは妻がいながら行くのか。おまえの人生は、これからだぞ」と言って、みんな反対しました。周りの人たちが言えば言うほど、「いや何を言う! 国が生きるか死ぬかという時に、なぜ我が幸せを考えられるか。私は志願する」と言って志願しました。この方が唯一宛てた手紙は、「親愛なる妻へ。私に素晴らしい人生をありがとう。あなたと出会ったことが、私にとって最高の幸せであった。生きる希望を与えられた。本当にありがとう。しかし、これからは、どうか私のことは忘れて新しい人生を出発してほしい。なぜならば、あなたにはこれからの人生が残っているから……」という内容のものでした。国を思い、愛する者を思う気持ち……どれほど妻を心から愛していたことでしょうか!
館長さんがこう言われました。「志願兵を選ぶことは簡単なことではありません。この若者たちに、どう……」。
朝礼の場で、「国の命令で志願兵を選ばなければならない」。艦長が皆の前に立って30 分間何も言葉にすることができず、壇上を行ったり来たりしながら、「今から二度と帰らぬその戦場に行ってもいいと志願する者、紙を配るから、これに自ら名前を書いて、その名前の上に◎を書け!」。
それは二度と帰らぬ戦場に行くことを志願する意志を表すことでした。若者たちは悩みながらも100 パーセントに近い人が◎を書いたそうです。だれに相談したわけでもないのに、若者たちは口をそろえたように「◎の中に、お母さんの顔が見えた!」と言ったそうです。その心情を考えると、涙しかありませんでした。
国の命令で、この度の戦場に5名特攻兵を出せと通達が来れば、それを選ぶのがこの館長さんの責任でした。死ぬことよりもつらかったと言われました。時には「若者たちを無駄死にさせるな!おれが行く!」と言って、受話器を投げつけたこともあったそうです。しかし、「指揮官たるものが何を言うか、責任を取らなければどうする。だれが指揮を執るのか!」。そう言われたそうです。眠られぬ夜を過ごし、選んだそうです。
「皆さん!だれから順番に選んだと思いますか?だれから行けと命令したと思いますか!」と聞かれました。涙を流しながら、「いちばん愛する人から順番に選びました。いちばん心の近い人から順番に選びました。これが親の心情だということが、皆さん、分かりますか」と言われました。私は自然に涙がこぼれました。心が熱くなりました。
私たちがこの教会に来て、どれだけ苦労が多いでしょうか。試練が多いでしょうか。お父様は、「愛する者を犠牲にして、愛し難き者を愛する」と言われます。館長のお話を聞いて、本当にいろいろなことを感じさせられたのです。お父様が私たち祝福家庭を先頭に立て、犠牲の道を行かせるのは、天が最も愛する者であるということです。
今年、2009 年、愛勝日に最後に語られたみ言の中に「犠牲の道を行く日本、永遠に滅ぶことのない日本……」と語られ、涙されたお父様でした。今日までの真の家庭の行かれた道は、まさにその道でした。
1945 年、本来7年間で神の国をつくる基盤が出来ていました。もしその時、摂理が失敗しないで、先ほどお話ししたような者たちがみ旨の先頭に立ったならば、彼らこそ準備された人たちだったのかもしれません。
館長が最も愛する者から選び、そして選ばれたその人たちに通達が行きました。通達が行った時点で、基本的には家に帰ることはできなかったようです。二度と家族に会えないということです。1週間後に出陣と決まれば、そこに心を備えて待つことしかできませんでした。若者たちは、出発が決まると口を合わせたかのように、故郷の話をしたそうです。「うちの家には、柿の木があってね。とても甘く、いつも家族で……」。そのように何度も繰り返し話をするので、「馬鹿者! 二度とその話をするな!」と怒ったこともあったそうです。その時の館長の心情はまさに親の心情でした。
語りながら涙を流される姿に、お父様が私たちをいつもこのように見つめてくださっていると感じ、涙がこぼれました。
殉死した和田稔という方は、このように書いていました。「東大に行って何になるか!私はここで、すべてを学んだ。ここは家族である。若者たちよ! 日本の未来を頼む……」。
ここでの生活は、家族だったのです。ここに残された遺書も、だれかが指示をしたわけではありませんでしたが、ほとんどの若者たちが書きました。大半が父母に宛てた手紙です。その内容も短く、「尊敬する父母へ。私はお父さんとお母さんから生まれたことを誇りに思います。いよいよ出発の時が来ました。この身を国のために捧げることを誇りに思います。お父さん、お母さん、心配せずとも私はいつも一緒です。……葬儀は家族で小さく行ってください」。
大きなトンネルを通って島の反対側に出ると、出発の基地があります。このトンネルを通った若者たちは二度と戻ることはありません。潜水艦も狭く暗いので、もし自分というものがあったら、気がおかしくなったでしょう。
先ほどの仁科さんの最後のやり取りです。戦場に着き、「各員準備せよ!」。仁科さんは人間魚雷に乗り込み、いよいよその出発の時が来た時です。「仁科! 最後に言い残すことはないか」と館長が聞くと、仁科さんはこう言いました。「出掛けにくれたアイスクリーム、本当においしかったです。ありがとうございました。気をつけてお帰りください。うおーーー!」。これが最後の言葉だったそうです。アイスクリーム! 特攻兵たちに、最後、心を込めて食べさせてあげたのがアイスクリームだったそうです。何もない時代に、せめて最後においしいものをとアイスクリームを食べさせました。
発射スイッチを押したのは館長さんでした。仁科さんの最後の言葉の中にこのようなやり取りがあったように思います。「心配しないでください。これは私が選んだことです。ですから艦長、心を痛めないでください。心配はいりませんよ。自らの決断でお国のためにこの命を捧げる決意をしたのです。お体を大切に、気をつけてお帰りください。ありがとうございました」。
孝行息子です。心を痛める館長さんの心に傷が残らぬよう、孝行の心情でこたえました。私たちもこの道を行く過程において、このように行かなければと教えられます。仁科さんの魚雷は見事に大きな船を撃沈したそうです。
祝福家庭として誇りを持って我々は行かなければなりません。何も持たないようですが、すべてを頂いた者たちです。何もないようだけれども、すべてを与えられた者たちです。祝福のみならず、過去の歴史まで消し去ってくださいました。そして何より私たちが誇れることは、人類史上、二度と来られない真の父母様と同じ時に、同じ苦労をして責任分担を頂き、歩ませていただいていること、その途上にあることがどんなに貴いことでしょうか。
今、アメリカから立派な方々がたくさん集い、そういう方々が代表して前に立ってスピーチし、お父様と握手をしたり抱擁したりされます。もし皆さんがそんなふうにされたら、しばらくお風呂に入れませんよね。でも、そんな立派なゲストの方々がお父様を受け入れたとしても、私たちのほうがもっと愛すべき人だということが分かりますか? その誇りを捨ててはいけないと思うのです。
今、蕩減復帰の峠を越えました。本当に一つになれば願いがかないます。夢は絶対かないます!神様の夢をかなえるために、天が最も愛する皆さんです!氏族を見ればもっと立派な人がいるのに、なぜ私が先に来たのか!
それは、館長さんが愛する者から送ったと言われるように、神様、真の父母様から見れば、最も愛する者たちが私たちなのです。私たちは神様が最も愛する者たちです。
自分は頭も良くない、また身なりも良くない。何かに長けているわけでもない。神様は、そのようなことを探すのではありません。ここにいる人たちは、さまざまな過程を経て、み旨の道に来て、人類のために、過去とこれからの未来のために犠牲になってやってほしいと、願いを託された者たちです。そう思って出発するならば、ここに集まる皆さんに、もっともっと大きな恵みがたくさんあると思います。
そして、孝の道を行くことができるなら、いつも神様と父母様は共にいてくださるでしょう。
すべての祝福家庭と食口の皆様の上に神様の大きな祝福がありますように! お祈りしましょう。