李倉培
<2010 春季 牧会者説教集より>
訓読:マタイによる福音書21章1〜11節
「さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、『向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう』。
こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。すなわち、
『シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って』。
弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、
『ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ』。
イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、『これは、いったい、どなただろう』と言った。そこで群衆は、『この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである』と言った」
今回、アメリカに行ってきましたが、今奉読した聖書の内容を重ねながら多くの事柄を考えるようになりました。
摂理は、時と非常に密接な関係があります。神様がノアを地上に送られる時も、アブラハムを地上に送る時も、すべて時に合わせて送ったのです。聖書の多くの部分において、時の重要性に対する内容が多いのです。
時が来たら、神様は無理やりにでも時に合わせて行動される神様です。イエス様の公生涯の期間にあっても同じだと思うのです。聖書の内容を見てみれば、今の時は旧約聖書の預言の成就と、メシヤとして、また万王の王の立場でエルサレムに入城される時です。いよいよメシヤとしてエルサレムに入る時を迎えるようになったのです。
皆さん、エルサレムについてまず考えてみましょう。エルサレムはどのような意味を持っているのでしょうか? 何のために、まただれのために建てられたのでしょうか?
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